猛虎人国記

猛虎人国記(45)~東京都(上)~ 江戸っ子の巨人キラー

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 東京都出身の阪神選手はわずか20人しかいない。巨人のライバル球団として創設された経緯からみれば、東京人を敬遠する風潮があったかもしれない。特に戦前は2人しかいなかった。1936年(昭11)の球団創設メンバーに加わった村田重治は左投手。京橋商(現芝商)卒業後、市役所に勤務していたところを若林忠志が推薦した。大島武は帝京商(現帝京大高)の強打の一塁手。主力選手の出征相次ぐなか、1年目42年から33試合に出場している。

 戦後初めて阪神入りする東京人が大崎三男である。50年春夏と監督・島岡吉郎の明治高を初の甲子園に導いた。明治大に進み、また島岡が監督となった。3年の53年8月末、助監督・迫畑正巳(後に大洋監督)の紹介状持参で松木謙治郎の元へ入団要請に訪れた。1年後輩の秋山登が主戦で出番が減ったためとも、島岡に「辞めてしまえ」と怒鳴られたためとも伝わる。同年9月のテストを経て入団した。

 56年には25勝をあげ防御率1・65と一躍エースとなった。57年も20勝をあげた。「江戸っ子の巨人キラー」だった。

 ルポライター藤崎美彦は本紙に<戦前の酒仙投手が西村幸生ならば、戦後は大崎><フロントとけんかもしたが、礼節を重んじた、愛すべき人物>と書いている。

 続く東京人は並木輝男。日大三のエース、主軸打者で55年夏、56年春と甲子園に出場し連続8強。早大進学予定だったが、家業の運送業を救うため契約金を父親に渡しプロ入り。スカウト・佐川直行が中日から阪神に移ったため、入団先も阪神となったそうだ。
 57年、セ・リーグ初の高卒新人で開幕先発出場。3番センターに定着した60年、優勝の62年はベストナインに選ばれた。

 64年、上京の車中で会った俳優・勝新太郎が「次の巨人戦でホームランを打ったらオレが仲人をやろう」と約束。見事、後楽園で本塁打を放ち、結婚式の媒酌人は勝・中村玉緒夫妻が務めた。

 日本一となった85年当時は強力打線を演出した打撃コーチ。88年、脳出血で急逝。49歳だった。昨年、明治大から入団の荒木郁也は日大三の後輩にあたる。

 堀越から4人。但田(たじた)裕介は69年選抜準優勝に導いた左腕。猪俣隆は新潟県の項で書いた。山本幸正は92年選抜で村野工・安達智次郎(阪神)に投げ勝ち、星稜・松井秀喜に本塁打を浴びて敗れた。野村克則(カツノリ)は父親の野村克也が監督時代の00年、ヤクルトから移籍。01年には2度のサヨナラ打を放った。

 拓大一から2人。宇田東植は東映から移籍し、1年限りで韓国・ヘテに渡った。清水義之は西武から96年に移籍し、同年限りで現役を引退した。 =敬称略=

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