猛虎人国記

猛虎人国記(11)~栃木県 村山を泣かせた中野の一打

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 監督・村山実の熱い涙を誘った中野佐資(さとる)=国学院栃木=の活躍が忘れられない。村山2度目の監督就任となった1988年(昭63)は開幕から4連敗。迎えた4月14日の巨人戦(甲子園)だった。2-2同点の5回裏、真弓明信敬遠の2死満塁、桑田真澄から中前へ勝ち越し打。6回も右前2点打を放ち、初勝利を呼び込んだ。

 試合後、会見場のプレスルームに歩む村山の目は既に赤かった。「中野がよく打ちましたね」の質問に「よう打ったね……。中野が打った時、涙が出てきたわ」。ここまで話すと席を立ち、監督室に駆け込んだ。独りで涙を流していた。

 中野は村山が名付けた「少年隊」の1人。和田豊(現監督)、大野久との若手抜てきトリオをアイドルグループに掛けて呼んだ。85年日本一から3年。主力が衰え、新旧交代の難しい時期にあった。中野は村山の勧めで阪神では初めての背番号「0」に変更。左翼を守った。あの決勝打がプロ初打点だった。10年後、98年8月の村山告別式では中野の方が涙した。

 五月女(さおとめ)豊は鹿沼農商(現鹿沼商工)のエースで67年夏の甲子園に出場。日本石油(現JX-ENEOS)に進み、72年産業別大会で優勝。ノーヒットノーランなどの活躍でMVPに輝いた。同年、ドラフト1位。新人の73年のオープン戦で4勝無敗。3月24日、桜が咲き始めた和歌山・紀三井寺での南海戦、名字同様のきれいなフォームが記憶に残る。公式戦では実力を発揮できず、3年間で1勝2敗。太平洋に移籍となった。

 藤倉一雅(後に多祐)は75年夏、エース4番で足利学園(現白鴎大足利)を初の甲子園に導いた。鹿児島商との初戦、自ら適時打を放ち1―0完封。3月5日に他界していた母・智恵子の遺影と遺髪を胸に縫い込んでの力投だった。青学大に進み、内野手として79年ドラフト外入団。背番号「3」に期待が映る。81年、ジュニアオールスターMVP。82年、初本塁打したが、同年入団の平田勝男との競争に敗れた形で移籍となった。

 同じく背番号「3」で栃木県から入団第1号となったのが河内(かわち)忠吾(ただみち)。小山(おやま)から日本大に進み、53年秋、駒沢大戦で東都リーグ初の完全試合。熊谷組を経て56年入団。三塁手で3試合出場にとどまった。退団後は荏原(現日体荏原)監督で選抜に、日大監督としてリーグ優勝4度に導いた。

 小山後輩の広澤克実はヤクルト、巨人、阪神3球団で4番を務め、優勝も経験した。スポニチ評論家の一方「子どもたちに夢を」とカンボジア代表のコーチに就任した。

 麦倉洋一は89年夏の栃木大会無失点で甲子園に出場。開幕試合で完封、自ら決勝弾を放った。2年目に2勝をあげたが、右肩痛で2度手術し、再起はならなかった。

 12月15日は07年鬼籍に入った島野育夫の07年の命日。南海から移っての選手晩年以上に名指導者、星野仙一の名参謀としての功績が偉大だ。

 あの「空白の一日」事件で阪神入団後に巨人移籍となる江川卓は登録上、79年2月10日から4月6日まで、阪神の所属選手だったことになる。背番号は空き番の「3」だった。=敬称略=

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