猛虎人国記

猛虎人国記(54)~福岡県(下)~ 新庄の夢を育てた豪快な「壁」

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 新庄剛志は自身の性格を「父親譲りの遺伝」と言う。昨年8月5日に食道がんのため70歳で亡くなった父・英敏は実に豪快な人だった。

 小さい時から居酒屋に連れていった。小学2年になると毎日、自宅前の坂道で特訓。子どもが捕れない強い球を投げ、そらすと全力疾走で拾いに行かせた。父は「子どもに立ちはだかる壁になった」と語っていた。

 西日本短大付への進学は甲子園とプロが狙えると父が勧めた。特待生がいるなか、一般入試で入った。父は毎日練習を見学した。3年夏に福岡大会決勝に進み新庄はサイクル安打を記録するが、福岡大大濠に敗れ、甲子園出場はならなかった。

 プロ入りがかなって阪神5位指名を受けた。1989年11月のドラフト直後、造園業を営む父は仕事中、はしごから転落し、右足首を複雑骨折する重傷を負った。入団交渉は入院先の病院近く寿司店を指定し、看護師同伴で出向いた。

 父の夢は息子の夢だった。息子は父を喜ばせようと頑張った。だから、あの95年オフ、引退発言を行った後、父が病床に伏したと聞き、現役続行に翻意したのだ。

 06年限りで現役を引退した際、父から手紙を頂戴した。「いつか、この時が来ると覚悟しておりました。長い間、いい夢を見させてもらいました」。自身の「壁」を超えた息子への感謝があった。確かに、新庄は夢を売る一流のプロだった。

 新庄とドラフト同期で1つ上の4位指名が古里泰隆だった。福岡第一2年夏に全国準優勝。控え投手で準々決勝・江の川戦に登板した。2年目91年の1月早々、甲子園のブルペンで見たスプリッター(SFF)の鋭さには目を見張った。同年2勝をあげ、ストッパー候補と期待されたが、故障に泣いた。03年からスコアラーを務める。

 宮脇則昭は87年ドラフト4位を受けた日、病院に報告に行くと、母は歩いており、喜びが倍増した。約1カ月後、大牟田高2学期終業式のあったクリスマスイブの夕方、母は逝った。肝臓がん、53歳だった。女手一つで育ててくれた母だった。1年目のキャンプ、安芸の浜辺で取材した。小学生時代、発病前の元気な母と姉2人、家族4人並び、自転車で行った荒尾・四山市場での買い物、有明海の潮の香り、真っ赤な夕日……と思い出を語ってくれた。

 福岡県からの戦前に阪神入りしたのは外野手・玉井栄1人だけだった。昭和初期、県内無敵だった小倉工で春夏5度の甲子園出場。門司鉄道管理局にいた関西大出身の大橋棣(やすし)を通じ37年入団。38年末に召集された。

 第2号は嘉穂から戦後48年入団の西江一郎。50年は遊撃のレギュラーだった。山田から日鉄二瀬を経て入団の三船正俊は52年、新人で開幕投手に抜てきされ、名古屋(現中日)を4安打完封と派手なデビューを飾った。水上靜哉(しずや)は修猷館出身。東洋高圧大牟田から東映でレギュラーとなった後、自由契約となり阪神に入った。

 安部和春は大分・杵築商在学中、西鉄入団テストに合格し、博多高に転校し日曜日だけ2軍に参加。右手親指を負傷し、微妙に変化する「アベボール」となった。63年10勝で優勝に貢献。65年オフ、本間勝との交換で阪神に移籍した。柿本実は苅田時代は三塁手。豊岡セメント、日炭高松で投手となった。南海から中日に移り横手投げ改造で開花。63年最優秀防御率。阪急から阪神に移り、引退後70―73年と投手コーチを務めた。

 桑野議(はかる)は九州工(現真颯館(しんそうかん))で投手。阪神では代打の切り札として活躍した。 =敬称略=
 (編集委員)

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