猛虎人国記

猛虎人国記(42)~大阪府(四) 危機の50年代救った大阪人

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 1949年(昭24)オフの2リーグ分立で阪神は若林忠志、別当薫、本堂保次、土井垣武ら主力が毎日の引き抜きにあい戦力が激減した。この大ピンチを救ったのが大阪の野球人たちだった。

 大国町に生まれた梶岡忠義は47年入団時、若林から「18」を譲られ、既にエース格だった。48年はノーヒットノーランも達成し、チーム最多26勝。問題の49年オフは痛めた右肩治療で別府温泉に出向いており、引き抜き騒動に巻き込まれなかった。50年から「1」を背負い、再びエースとして奮闘した。52年には最優秀防御率に輝いた。

 阿倍野生まれの渡辺博之は騒動の最中、49年12月24日に入団契約した。既に27歳。全大阪で都市対抗に出場。<御堂筋に洋品雑貨の店を構え><天王寺公園で時々軟式野球をやり、大ホームランを打って人々を驚かせていた>=松木謙治郎『タイガースの生いたち』=。1年目から藤村富美男の後ろ5番を打ち、54年は打点王を獲った。

 梶岡は長居の成器商(現大阪学芸)、渡辺は桃山中(現桃山学院)出身で同級。中学時代は浪華商、日新商などに阻まれ、甲子園出場経験はない。梶岡は専修大、渡辺は同志社大に進み、ともに秋の明治神宮大会に出場、中央球界に知れ渡った。

 戦力ダウンに球団は若手育成に動き、50年、2軍制度を設けた。初代2軍監督に起用したのが森田忠勇だった。市岡中(現市岡)時代の21、22年夏の全国大会(当時は鳴尾球場)に出場。関西大に進み、監督も務めた。当時関西大学生で同じく市岡出の青木一三に2軍マネジャー補佐を任せた。球界人脈に通じていた森田は自ら勧誘、また入団テストを行い、選手をかき集めた。

 青木は市岡中時代、蔭山和夫(南海)と二遊間を組み、42年「幻の甲子園」と呼ばれる文部省主催の全国大会に出場。後に敏腕スカウト「マムシの一三」として逸材を獲得した。92年3月17日夜、高槻市の病院で他界した(肺がん、64歳)と聞いた時は驚いた。療養中と聞いていたが、つい2日前、オープン戦(対巨人=雨天中止)の甲子園球場プレスルームで会っていた。「原稿より健康や」と言っただみ声と笑顔が今も目に残る。「藤村排斥運動」の責任を取る形で阪神を去ったが、死を目前に、懐かしい甲子園にやって来たのか。

 名門市岡から、2軍新設の50年、大陽にいた島田吉郎、楠本一夫(ともに内野手)、52年に左腕・岩村吉博と入団が相次いだ。89年になって、ヤクルト-近鉄から右腕・南秀憲が移籍。いまは司法書士として活躍している。

 さらに、再建の50年代に入団した大阪人を並べる。扇町商(現扇町総合)を51年選抜8強に導いたエース4番・横山光次は父親が阪神電鉄の社員だったこともあり、同年秋に入団内定。外野手として58年には4番も務めた。栄屋悦男は酉島工(現都島工)-近畿大-鐘紡で都市対抗に52年優勝、53年準優勝して入団。1年目54年に7勝。石川良照は無名の堺市工から55年テスト入団。3年目57年に13勝をあげた。大阪・船場の東商出身で東洋紡から49年途中入団した駒田桂二は50年から手薄な投手陣を救い通算45勝。

 上宮の山中雅博は54年にテスト入団し、同校初のプロ野球選手となった。1年目に救援中心に5勝をあげた。上宮からは後に一枝修平、中村豊、筒井壮と指導者でも活躍する選手が入団している。

 奥井成一も時代を担った功労者だ。生野中(現生野)からノンプロ全玉野で遊撃手。48年入団したが、故障で現役は1年限り。49年からは名マネジャー、管理部長などフロント要職を歴任、40年にわたりチームを支え続けた。=敬称略=

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