猛虎人国記

猛虎人国記(6)~愛媛県 「ミスター」の嚆矢 景浦将

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 景浦将こそ「ミスター・タイガース」の嚆矢(こうし)といった声が大きい。例えば、野球史家とも言えるノンフィクション作家の佐山和夫は歴史や伝統を重視したうえで「甲子園に景浦の銅像を建てるべき」と主張する。

 後の「ミスター」藤村富美男、村山実らに続く「闘将」は景浦の異名だった。名前の「将」と「闘志」あふれる姿から、そう呼ばれた。詩人・西条八十は「戦場を駆けるタンク」と称した。

 松山商から進んだ立教大で1年生から活躍し優勝に貢献。中退して創設初年度のタイガースに加わった。中学先輩の初代監督・森茂雄と若林忠志から1936年(昭11)2月26日、「2・26事件」で騒然とする東京・銀座の資生堂レストランで口説かれた。
 4番・サードとして、巨人・沢村栄治との対決は草創期のプロ野球最大の呼び物だった。37年春打点王、秋首位打者。投手としても36年秋に最優秀防御率、最高勝率。投打で猛虎を演じた。

 大食漢の逸話には事欠かない。下校途中に松山市駅前の日切焼(ひぎりやき)を27個、若林との競争ですき焼きで肉1貫目(約3・75キログラム)、横綱・前田山大五郎の弟子と食べ比べた焼き鳥は130本……。

 そんな景浦も45年5月20日、フィリピン・カラングラン島で戦死する。大道文(田村大五)によると、高熱をおして部隊の食料調達に出かけた山中で不帰の人となった。

 後輩に創設初年度から加わった伊賀上良平がいる。イロハ順で決めた背番号は「1」。37年に建てた合宿所「協和寮」の寮長を務めた。巨人初代監督の藤本定義は60年、ヘッドコーチで入団。62年監督に就任し2リーグ制で初優勝、64年も優勝に導いた。
 松山は野球を愛した俳人・正岡子規の故郷でもある。救援左腕で現役の筒井和也は松山北出身。愛知学院大から自由獲得枠での入団だった。

 西条からは渡辺省三がいる。倉敷レーヨン西条で軟式野球をやっていた51年10月、入団テストに合格した。連日の打撃投手で制球が磨かれ、精密機械と呼ばれた小山正明と「ボール球を投げるまで」と続けた競争は結局、終わらなかった。57年には9回をわずか70球で零封している。引退後は名スカウト。長年九州を担当し、野田、遠山、新庄らを発掘した。

 金子哲夫はその西条、59年夏の甲子園大会優勝投手。1軍登板は1試合だけで去った。

 古沢憲司は新居浜東を中退しての入団。64年7月25日、国鉄戦(甲子園)での初登板(3回無失点)当時は16歳と117日。戦後最年少の公式戦出場記録だ。72年には開幕投手も務めた。78年オフ、真弓明信らとのトレードで田淵幸一ともに西武に移籍した。

 続木敏之は新居浜商2年の75年夏、4番捕手で甲子園準優勝。藤本修二は今治西2年夏にエースで甲子園出場した。今もそれぞれコーチ、用具担当でチームを支えている。=敬称略=

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