猛虎人国記

猛虎人国記(36)~兵庫県(上) 激情と温情の11番 村山実

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 人材豊かな兵庫県は東の尼崎から入っていく。

 永久欠番「11」村山実の出身高校は尼崎の住友工だ。学校のあった場所に今も銅像がある。七回忌の2004年8月、卒業生らが全国から寄付金を募り建てた。天覧試合で長嶋茂雄に投げている瞬間をかたどった。

 住友工は村山卒業後、尼崎商との合併で尼崎産となった。さらに尼崎東との統合で今春4月に尼崎双星(そうせい)として北東約3キロの場所に移転となった。銅像については「後輩の励みに建てたのだから、統合校に移すべき」「当時の場所にないと意味がない」と意見が分かれ、宙に浮いたままだ。野球部OBで、建立実行委員長の泉原保二(70=会社社長)は「いずれにしても、大切に残していきたい」と話す。

 村山は住友工3年夏も兵庫大会準々決勝で敗れ甲子園出場経験はない。高校卒業時、立教大セレクションを受け「体が小さい」などの理由で不合格となった。東京への対抗意識が高まった。関大に進み、2年で大学日本一となった。契約金2000万円の巨人を断り、500万円の阪神に入った。長嶋をライバルと定め、強者巨人に立ち向かう。「東京がなんや」という関西人の思いを体現し、共感を呼んだ。

 巨人戦通算39勝55敗だが、後楽園ではわずか14勝だった。「東京では、すべて敵に見え、かっかしていけない」との談話が73年3月の引退試合を伝える本紙にある。
 この『村山の総(すべ)て』で田中二郎が書くのは「二面性」だ。宿舎でズボンを繕い、自宅で模様替えをする。激情家の穏やかな側面だ。2度目監督となった88―89年当時も同じだった。遠征先に自分の枕を持ち込み、練習中に結婚する選手への祝電を考え、女性記者のスカート姿を戒めた。村山は実に繊細だった。打たれ、敗れて絵になる悲劇性は、そんな心にもよるのだろう。

 尼崎での少年時代、村山とよく対戦していたのが1歳上の小玉明利。神崎工2年時、近鉄のテストに合格し中退。「お荷物」と呼ばれたチームで奮闘し、9年連続オールスター出場。兼任監督も務めた後、68年に阪神移籍。監督生活の苦労がたたったか、在籍2年、2000安打にあと37本で現役を退いた。

 尼崎中(現県尼崎)からは谷田比呂美がいる。国鉄で金田正一の女房役を務める捕手のプロ生活は阪神から。出征、シベリア抑留後の48年に入団。53年にはセ・リーグ初の代打サヨナラ本塁打を放った。同校59年選抜出場時のエース合田栄蔵は南海で2年連続2桁勝利し、71年移籍。外野手・長幡忠夫は61年から2年在籍した。

 尼崎北の山田譲治は阪神では1軍出場なく退団となったが、社会人・丸善石油で58、59年と都市対抗に出た。

 尼崎工で4番を打った岡田功は50年2月、阪神入団テストに合格。選手登録は52年から。55年まで41試合に出たが安打1本で引退。セ・リーグ審判員となった。史上最多3899試合出場など、球界を代表する審判となった。 =敬称略=

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