猛虎人国記

猛虎人国記(7)~群馬県~ 初代勝利打点王の人間性豊かな佐野仙好

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 阪神の長い歴史のなかでノーヒットノーランを達成した投手は9人に上る。その第1号は三輪八郎である。

 1940年(昭15)、紀元二千六百年奉祝事業で行ったプロ野球初の満州(現・中国東北部)遠征。8月3日、小雨降る大連満倶球場での巨人戦で達成した。4四球3失策の走者を背負ったが「強い当たりは川上の二ゴロだけ」(松木謙治郎)の快投だった。1メートル76と当時では長身の左腕から角度ある速球とドロップ(今で言う縦のカーブ)を投げた。藤村富美男は「速球だけで勝負できた左投手は三輪八と江夏だけだ」と語っている。

 高崎中時代、全国大会出場経験はない。桐生中の名監督、稲川東一郎の推薦だった。稲川夫人の弟、早川二郎が電鉄本社事業課から球団に出向しており仲介役となった。
 稲川は群馬県球界で大きな足跡を残した人物。母校桐生を率い、戦前戦後、春夏通算24回の甲子園出場に導いた名将である。準優勝2回、4強2回。67年春の県大会試合中に脳出血で倒れ、ユニホーム姿のまま逝った。

 先の早川との関係から教え子で36年選抜準優勝の投手4番の青木正一、遊撃手の皆川定之が入団している。皆川は1メートル56と小柄で、公式戦初出場の際、球審・二出川延明から「坊や、向こうへいけ」とバットボーイと間違えられたほど。松木は守備だけなら吉田義男以上と書いた。

 いまスカウトを務める佐野仙好は中央大で1年から首位打者となるなどドラフト1位だった。同期入団の掛布雅之に三塁を奪われたが、左翼手の定位置についた。引退時に「掛布がいたからやれた」と言い、掛布が「佐野さんの目の前で下手なプレーはできない」と語ったのを思い出す。

 勝負強く、81年新設の最多勝利打点で初代タイトル保持者となった。優勝した85年は槙原(巨人)からの代打満塁本塁打や優勝決定の10月16日、ヤクルト戦(神宮)での同点犠飛と印象が強い。

 77年4月29日、川崎球場でのフェンス激突事件で頭蓋骨を骨折。死線をさまよった。当時、身体障害者からもらった手紙に感激し、交流が始まった。以来毎年、障害者を甲子園に招待してきた。「佐野シート」の活動に豊かな人間性を見る。

 現役の狩野恵輔は前橋工の後輩。捕手に外野手にと背番号「99」は「苦」「苦」と読めるが、先輩のような不屈の姿勢で奮起してほしい。

 飯田正男は高崎商の投手兼内野手で77年夏の甲子園に出場。大会第1号、戦後200号本塁打を放った。俊敏で「サスケ」と呼ばれ、81年に代走で5試合出場。翌年からスコアラーを務める。

 99年夏に群馬県勢初の全国優勝を果たした桐生第一のエース正田樹は日本ハムから移籍。阪神で1軍登板はない。台湾・興農、レッドソックス(マイナー)、BCリーグ・新潟と放浪し、昨年11月24日、ヤクルト入団が発表された。=敬称略=

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