猛虎人国記

猛虎人国記(62)~沖縄県~ 「栄光」を追い求めた大器 仲田幸司

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 左腕・仲田幸司が興南3年最後の夏、甲子園で敗れた時、阿久悠はスポニチ紙面『甲子園の詩』で<これこそ投手だという條件(じょうけん)を 全(すべ)てそろえた少年に 栄光だけがない>と書いた。1983年(昭58)のことである。

 大会前、5月の招待試合(那覇・奥武山)で甲子園夏春連覇していた水野雄仁の池田に5-0と完勝。同月の大阪遠征では夏に全国制覇するPL学園(清原和博1年生)を3-1で破っていた。

 沖縄県勢初優勝の期待があったが、2回戦で前年夏と同じ広島商に敗れた。被安打は前年2本、この年4本。巧く攻められた。『詩』は<ロマンは明日に残された>と結ばれている。後記では<大旗は遠くなったか、それはわからない。仲田幸司以上の大器を擁して出て来ることも考えられる>。予感は的中する。同じ左腕・島袋洋奨(現中央大)を擁した興南後輩が一昨年、県勢初の夏制覇。春夏連覇だった。阿久の没後3年、仲田から27年がたっていた。

 ドラフト3位で阪神入り。大器は伸び悩んだ。監督・村山実の指名で開幕投手を務めた88、89年も6勝、4勝。91年わずか1勝で「野球人生が終わってしまう」と危機感を覚えた。スライダー、チェンジアップを習得した92年、14勝1セーブ、最多奪三振と活躍。だが優勝争いには敗れ、栄光には手が届かなかった。

 興南で仲田の3年先輩が渡真利(とまり)克則。宮古島生まれ。5番サードで出た80年夏の甲子園8強。ランニング本塁打も放った。ドラフト2位で入団。故障に泣いたが、幸運もあった。85年10月16日ヤクルト戦(神宮)で一塁手として投ゴロ送球を捕った時が優勝の瞬間だった。91年ダイエー(現ソフトバンク)、93年セ・リーグ審判員、07年同関西事務所。10年から阪神園芸に務め、鳴尾浜で後輩の練習を支える。

 石嶺和彦は豊見城の4番捕手で77-78年と春夏4季連続で甲子園出場。78年、現監督・和田豊が1年でいた我孫子戦でサヨナラ犠飛を放った。ドラフト2位で阪急(現オリックス)入り。肝炎や膝の故障を克服し、86年、56試合連続出塁のプロ野球記録(当時)をつくった。フリーエージェント(FA)制度ができた93年オフ、権利を行使し阪神移籍。1年目17本塁打77打点など低迷期を支えた。96年限りで引退しスポニチ評論家。天才的な内角打ちを落合博満に買われ04年から中日打撃コーチ。今季からDeNA打撃コーチを務める。

 若い頃、沖縄水産監督(前豊見城監督)の栽弘義に「まず沖縄の歴史を知って下さい」と諭された。「沖縄の野球人は“沖縄”を背負っている」。沖縄県民は野球に夢や希望を託してきた。

 その点で安仁屋宗八は「沖縄の一番星」だった。沖縄(現沖縄尚学)のエースで62年夏、南九州大会で宮崎大淀を破り、甲子園出場。琉球煙草では大分鉄道管理局の補強で都市対抗出場。スカウトの目に留まり、沖縄出身のプロ第1号となった。広島で成績が下降した74年オフ、阪神に移籍。75年12勝7セーブ、最優秀防御率に輝き、カムバック賞を受けた。

 大城祐二は強肩俊足で内外野ともにこなした。ソフトバンク育成選手を経て、今季からBCリーグ・福井でプレーする。=敬称略=

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