猛虎人国記

猛虎人国記(23)~徳島県~ 片りん見せた「ヘクター」の連発

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 宮内仁一(まさかず)(直二)にとって、6年ぶりとなる甲子園での2打席連続本塁打だった。1991年10月2日の大洋(現DeNA)戦。7回に左腕野村弘樹から左翼へ、9回に「大魔神」佐々木主浩から右翼へ運んだ。2年連続最下位となるシーズン終盤、観衆7000と閑古鳥鳴くなか、素質開花と喜んだ。トレードマークだったゴーグル型のメガネが光っていた。

 思い浮かべたのは85年選抜。池田の主将、4番として駒大岩見沢戦で2ラン、3ランと連発。4強進出の立役者だった。

 吉野川中流、三好郡三好町(現東みよし町)出身。「やまびこ打線」で夏春連覇を達成する83年に池田に進んだ。阪神が日本一となった85年秋のドラフト4位。「阿波のヘラクレス」と異名をとった怪力が魅力だった。

 1年目から3年連続で米国野球留学に派遣された点に球団の期待が見える。米国での呼び名もギリシャ神話の英雄「ヘクター」で通っていた。

 88年は3月から9月まで1Aフレズノに八木裕(現コーチ)らと武者修行の予定だった。7月10日の試合で左肘を複雑骨折。帰国となった。その後も故障に泣かされ94年オフに引退した。今は「野球塾」で小中学生の指導を続ける。

 同じく選抜4強(70年)に進出した鳴門の4番が笹本信二。強肩と左打席からの強打が光った。同志社大を経て、ドラフト3位で入団。新人の75年、ジュニアオールスターでMVPに輝いた。ただ、正捕手・田淵幸一の壁は厚く、77年、阪急に移籍。82年には巨人に移った。現在は巨人運営部長を務める。鳴門OBでは住友一哉がいる。法政大―プリンスホテルを経て近鉄入り。阪神には88年オフにきた。監督・村山実の要望に編成部長・西山和良が応えてのトレードだった。移籍1年目の89年、自己最多タイの44試合に登板。村山は抑えでも起用し、7セーブをあげた。

 現役の渡辺亮が徳島県出身の阪神選手で最高の実績を積み重ねている。実家近くに鳴門競艇場があり、競艇選手を目指していた話は有名。鳴門工で選抜出場。同志社大―日本生命を経ての入団。2年目から今季まですべて救援で5年連続46試合以上に登板。今季は防御率1点台(1・98)、WHIP0点台(0・97)と抜群だった。

 楠本秀雄は小松島西出身。小西酒造時代の70年、三菱重工神戸の補強で都市対抗に出場し4番を打ち準優勝。同年ドラフト3位の入団だった。同校後輩で、選抜にも出た根本隆輝は00年シーズン中に日本ハムから移籍した。右投げ左打ちの好打者だった。

 名門徳島商から阪神選手は出ていない。68年に投手コーチを務めた林義一がいる。明治大から大映入り。変化球を駆使する技巧派としてパ・リーグ初のノーヒットノーランを達成。阪神では速球一本槍(やり)だった2年目の江夏豊に「ゴムまりの天井投げ」でカーブを教えた。 =敬称略=

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