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猛虎人国記(18)~外地~

 戦前戦中、「外地」と呼ばれた日本統治下の満州(現中国東北部)、台湾、朝鮮では春夏の中等野球(今の高校野球)甲子園大会に代表校を送っていた。阪神には3選手が入団している。

 呉昌征(ごしょうせい)(本名・呉波=ごは=)は1916年(大正5)、台湾・台南市に生まれ育った。日本語しか話せない。終戦の29歳まで日本人。引退後、日本国籍を取得し、夫人の旧姓・石井を名乗った。

 嘉義農林(現嘉義大学)で松山商OB「近兵」(こんぴょう)と愛称された監督・近藤兵太郎の下、春1回、夏3回甲子園出場。はだしでのプレーが人気を呼んだ。37年(昭和12)、巨人に入団し、首位打者2回、最高殊勲選手(MVP)1回。強肩快足で「人間機関車」と呼ばれた。

 43年(昭和18)、台湾に帰郷するため巨人を退団。準備で立ち寄った大阪の神島(こうじま)化学に勤務することになった。慶応大で4番も打った社長・宮原清がプロでのプレー継続を望み、阪神球団代表・富樫興一に紹介した。一部で「金銭トレード」とも伝わる移籍事情は岡本博志著『人間機関車・呉昌征』に詳しい。

 同書には、戦局悪化でプロ野球が中断となった45年、阪神電鉄社員として甲子園球場をいも畑にするため現場監督として指揮した下りがある。嘉義農林で学んだことを生かし、<土壌改良から取り組んだ。「世の中にお役に立てる」と新鮮な気持ちがした>とある。
 阪神では主に1番センターで活躍。強肩を買われ、投手でも登板した。戦後46年にはノーヒットノーランも達成した。50年には新球団・毎日に移り、57年まで現役。初の実働20年を記録し、台湾出身者で初の野球殿堂入りを果たしている。

 同じく台湾・台北一中出身に内野手・宮崎剛がいる。台北一中では当初ラグビー部で、野球部生活は1年半。36年夏の予選で嘉義農林に降雨コールド負けした。西脇良明『台湾中等学校野球史』に<1年の努力も数分間のスコールで空しく散った>と回顧録がある。同志社高商(現同志社大商学部)に進み、戦後47年(昭和22)には国民リーグの宇高レッドソックスに移り首位打者にもなった。引退後は大洋(現横浜DeNA)の監督も務めた。

 朝鮮の平壌高普を出た朴賢明(ぼくけんめい)は京城(現ソウル)の実業団で投手を務めていた。全京城で都市対抗にも出た。38年(昭和13)夏、満鮮遠征で秋に東京六大学史上初の4連覇を達成する明治大相手に好投を演じた。同年秋に入団した阪神では好投手ぞろいで出番がなく、翌年退団。松木謙治郎は『タイガースの生いたち』で、東映監督時代の69年、韓国遠征で弟の朴賢植と会ったが「兄は平壌にいる」と再会できなかった無念を書いている。=敬称略=

[ 2012年3月27日 06:00 ]

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