猛虎人国記

猛虎人国記(57)~神奈川県(上)~ 「原キラー」「18連勝」の「トラボルタ」

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 中田良弘はドラフト1位で阪神入りした1981年(昭56)、「原キラー」と呼ばれていた。同じドラフト1位の巨人新人、原辰徳(現巨人監督)に強かった。

 中田の方が1歳下。横浜高時代、東海大相模でアイドル的人気を得ていた原と対した。原が高校3年間で唯一甲子園出場を逃したのは3年春の選抜。75年秋季神奈川大会準々決勝で横浜は東海大相模を6―5で下した。1年生の中田が好救援。9回2死、一打同点のピンチでも原を抑えた。中田が日産自動車、原が東海大時代のオープン戦も含めアマ時代は通算8打数無安打と封じていた。

 プロ初対決は中田初先発の81年4月11日、甲子園。9回1失点完投で敗戦投手となるが、原は4打数無安打。5月4日の後楽園でセ・リーグ新人一番乗りの白星をつかみ対原も3打数無安打。5月16日の甲子園で4回に浴びた中前打が7年、17打席目の初安打だった。
 伝統の一戦を戦う阪神-巨人のドラフト1位同士で何かとライバル視され「原さんには負けない」と繰り返した。俳優ジョン・トラボルタ似の顔立ちから「和製トラボルタ」。開幕当初は先発、6月から抑えに回り、6勝8セーブをあげた。原は22本塁打を放ち、新人王に輝いている。

 右肩痛と闘いながら、85年には12勝をあげ優勝に貢献。同年8月に敗戦投手となるまで足かけ5年で18連勝を記録した。

 横浜高1年下で遊撃を守っていたのが吉田博之。3年で捕手、1年生エース愛甲猛で78年夏の甲子園16強。南海入りし、81年ジュニアオールスターで中田とバッテリーを組んだ。90年オフのトレードで阪神に移籍、再び同僚となった。

 87年ドラフト2位の高井一(はじめ)が印象に残る。スイッチ打者で高校時代は横浜スタジアムで左右両打席本塁打も放った。1年目キャンプからセンス抜群の打撃を見せた。3年目90年に2本塁打するなど兆しが見えたが、91年の右手首骨折やヘルニアなど故障に泣いた。

 横手投げの部坂俊之は92年春、高橋光信は捕手として93年春の甲子園に出場。高橋は国際武道大時代、日米大学野球で日本代表の4番を務めた。中日時代、監督・落合博満もそのセンスを認めていた。阪神に移ってからも主に代打で活躍した。今季から1軍打撃コーチだ。

 なお若林忠志がハワイから来日当初在籍した本牧中は横浜高のルーツでもある。
 先の高井の父・準一は60年夏、全国制覇した法政二の3番・二塁手で近鉄入り。当時法政二の監督が田丸仁で阪神スカウトとして高井や中田を担当した。法政大ラインで木戸克彦、猪俣隆、葛西稔ら多くの人材を獲得した。取材先での野球談議は味があった。93年2月他界。66歳だった。

 法政二全国制覇当時の4番・センターが幡野和男。後輩の村上雅則は61年選抜に出場。南海時代、米留学先からジャイアンツで日本人大リーガー第1号。74年オフ、トレードで阪神には1年だけ在籍した。伊達昌司は法政大-プリンスホテルから00年ドラフト2位。引退後、教員資格を取り、昨年4月、学生野球協会から高校野球指導者として認定された。=敬称略=

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