猛虎人国記

猛虎人国記(51)~京都府(上) 金田少年を発掘した寺田球場 3監督を生んだ進取の気

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 今の夏の甲子園大会は京都帝大の学生、高山義三(後の京都市長)の提案から始まった。母校・京都二中(現在の鳥羽)の練習をみているうちに全国でも強いのではないかと、朝日新聞京都通信部に大会創設を持ちかけた。京都人らしい進取の気性が見える。

 投手の高山は二中時代の1910年(明43)、創立10周年で招待した早大相手に好投。1―1の9回、飛田穂洲に本盗を決められ惜敗した。2年後には明大を破るなど、実力は超中等級だった。

 第1回大会は15年(大4)、豊中で開かれ、京都二中は全国制覇を果たす。同校歴代部長が記した『野球部記』(復刻版)には<大優勝旗ヲタテ、特別電車ニテ大阪ヲ凱旋>と感激が伝わる。

 そんな京都の野球界から府県別最多3人の阪神監督が生まれている。金田正泰(第11、17代)、吉田義男(第18、23、27代)、野村克也(第28代)である。合わせて6代15シーズン。阪神球団史の5分の1は京都人の監督が率いたことになる。

 金田(旧名・竹村正次、晩年は小武内(おぶない)正泰)は京都人で初めてタイガースに入った。本紙53年(昭28)の連載『プロ球人お国めぐり』でも永井正義が<阪神勢の嚆矢(こうし)>と特筆している。

 20年(大9)生まれ。3歳の時、久世郡寺田村(今の城陽市)に移り住んだ。5歳から近所にあったグラウンド(35年寺田球場として開場―43年閉鎖。現在の城陽中グラウンド辺り)で球拾いに通い、野球に親しんだ。

 同球場管理人の小笹清一は平安中(現龍谷大平安)監督。金田が寺田高等小学校時代、連日ボールボーイに来る少年の強肩俊足を見込み、グラブをプレゼント。学費・通学費免除で平安中に進学させたという。小笹は後に台湾・花蓮港中に渡り、監督を務めた。この金田発掘の逸話は台湾時代の教え子、岩本力(大阪市)から寄せられた。

 寺田球場では37年夏、タイガースが合宿練習を行い、同年秋の初優勝につなげた。球団に関係深い地として記憶したい。

 平安中での金田は控えながら38年夏全国制覇。センターを守り39―41年選抜に出場した。41年夏の大会は戦局悪化で中止となり<5年生部員の球春も終わりを告げた>=『平安野球部史』=。

 同年秋に松木謙治郎が平安中の臨時コーチを務め、目をつけた。他球団の勧誘を断り、42年に入団した。46年、戦後初のシーズンに首位打者。ダイナマイト打線を1番打者で引っ張り、51年のシーズン18三塁打は今もプロ野球記録である。

 打撃好調時は「投げる球がない」と巨人には背後を通すサインもあったと大井広介が『タイガース史』で書いている。47年5月23日の南海戦(甲子園)で別所昭(後に毅彦)からビーンボールを続けられ、マウンドに迫った。松木も<逆境になってもファイトがあるのは金田が第一人者>と称えている。=敬称略=

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