猛虎人国記

猛虎人国記(52)~京都府(下)~ 「牛若丸」も感激した甲子園出場

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 龍谷大平安は金田正泰に始まり現役の桧山進次郎まで阪神に輩出した13人はPL学園と並び全国最多だ。

 富樫(冨樫)淳は阪神初代球団代表・富樫興一の次男。甲子園で育った。関学中で39年夏に甲子園出場。平安中に転校した。42年、文部省・大日本学徒体育振興会主催「幻の甲子園大会」にエースとして準優勝。徳島商との決勝は延長11回、サヨナラ押し出し四球で敗れた。法政大に進み、戦後46年のチーム再興で入団した。後輩の小俣秀夫、中村徳次郎も加わった。

 小俣は阪神退団後、別府・星野組で西本幸雄らと49年都市対抗優勝、毎日に入った。塩見栄一は和歌山出身で海南中から転校した左腕。48-50年2勝で退団。51年、鐘紡で都市対抗優勝。52年、再びプロ(大映)入り。プロアマ交流が盛んな当時がうらやましい。

 大館勲(勲夫)はハワイ生まれの日系2世。35年夏の甲子園大会に出場。武道専門学校を経て、柔道家として兵庫県警で師範を務めながら、ノンプロ全京都の3番一塁手で48年、都市対抗に出場。巨体・怪力を見込まれ、ハワイ・マッキンレー高先輩の若林忠志の勧誘で入団となった。

 その大館との交換で入団したのが徳網茂だ。京都商(現京都学園)の4番捕手で神田武夫(南海)と組んだ。39年夏、40年春夏と甲子園出場。同志社大では蔦文也(東急、池田高監督)と同期。大洋漁業で都市対抗にも出た。49年、入団が決まった新球団・毎日が阪神・土井垣武を引き抜き、捕手事情からトレードが成立した。オールスターに4度出場した。

 48年選抜優勝投手が京都一商(現西京)の北本重二。決勝の相手は京都二商(廃校)で京都勢同士だった。阪神は同年秋に契約したが、二重契約問題が表面化し、大陽へ入団となった。

 この決勝をスタンドから見ていたのが京都二商1年の吉田義男である。同年秋、学制改革で山城高へ編入。2年の50年夏、平安、八幡商を破り甲子園出場を決めた。<夕日沈む衣笠球場で校歌を歌った感激は忘れられない>=『牛若丸の履歴書』=。3年夏は主将・4番。全国優勝する平安に敗れた。立命館大中退で入団した53年、臨時コーチの岡田源三郎が広い守備範囲を明治大後輩の監督・松木謙治郎に進言。1年目から遊撃を守った。失策しても松木が「もう一つしてみろ」と檄(げき)を飛ばし、「牛若丸」の攻撃的守備となった。

 吉田と同世代に桂の左腕和田功がいた。52年毎日入り。小柄で速いテンポで投げる姿が51年来日した大リーグ選抜軍の左腕ボビー・シャンツ(アスレチックス)に似ており「和製シャンツ」と呼ばれた。最多勝、最多奪三振も獲り、阪神には58年オフに移籍した。

 櫟(いちい)信平は京都三商から同志社大で3季連続首位打者。49年東急入りし阪神に移った。50、51年と100試合以上に出たが胸部疾患で引退。打撃コーチ、スカウトを務めた。同大の後輩が東山中出身の捕手・長谷部栄一。退団後、日本新薬監督で都市対抗に5度、母校東山監督で甲子園に2度導いた。西垣一(まこと)は城南から入団の投手。阪神での登板は1試合だけで、退団後、監督長谷部の日本新薬で打者で活躍。監督も務めた。

 近年では杉山直久。東舞鶴から龍谷大に進み、02年自由獲得枠で入団、背番号18。05年9勝で優勝に貢献したが、その後伸び悩んだ。昨季限りで自由契約となり、BCリーグ・富山でプレーを続ける。=敬称略=

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