猛虎人国記

猛虎人国記(33)~宮崎県~ 「マッチ」の髪が揺れた大舞台

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 池田親興(ちかふさ)は中学時代、万能選手で知られ、野球(捕手)、柔道で県優勝、砲丸投げで九州新記録。そう言えば投手としての球質も重かった。

 2度の阪神ドラフト指名を受けている。高鍋3年時、4位指名を受けたが、周囲の反対もあり、法大に進んだ。この時、スカウト・小林治彦は「4年後も指名できる投手になれよ」と言って別れた。再会は6年後。日産自動車2年目の83年、今度は2位で指名。1位級の条件で入団となった。

 ドラフトの前には辛い敗戦があった。野球が初めて五輪公開競技となる84年ロサンゼルス五輪の予選を兼ねたアジア選手権。83年9月13日の韓国・ソウル。出場権を懸けた台湾とのプレーオフで日本は敗れた。池田―郭泰源(かくたいげん)(後に西武)の投手戦で0―0の9回裏、先頭の4番・趙士強(ちょうしきょう)(当時文化大。後に本田技研―台湾・味全)にサヨナラ本塁打を浴びた。池田は「外角低めを狙ったカーブが……」と言ったきり号泣したと本紙にある。

 ただ84年、ロス五輪は東側諸国のボイコットでキューバが不参加。日本は代替出場となり、見事金メダルを獲得する。五輪の夢破れた池田はプロ1年目、9勝をあげ、投手陣の軸となった。

 2年目85年は開幕投手を務め、9勝。日本シリーズ第1戦では西武を完封し「ヤクルト(同年最下位)の方が手ごわい」と言った。「球界のマッチ」(近藤真彦)と呼ばれた髪が揺れていた。

 だが3年目以降は成績が下降。91年、ダイエー(現ソフトバンク)移籍し救援に転向。引退後は解説者で活躍する。

 高鍋で先輩にあたるのが清(せい)俊彦。62年選抜に出場。64年入団の西鉄で指導したのが阪神元監督・投手の若林忠志だった。64年ノーヒットノーラン、近鉄移籍後に最優秀防御率のタイトルも獲った。阪神へは最晩年の76年に移籍し、シーズン途中で現役を退いた。

 日南学園で95年春夏と甲子園に出た平下晃司は近鉄からの移籍。野村克也命名の「F1セブン」の1人。星野仙一1年目の02年6月29日横浜戦ではサヨナラ打も放った。引退後は野球教室や飲食店を経営。先ごろ、女子プロ野球の新球団・大阪のコーチに就いた。その日南学園に野球留学したのが台湾・屏東市出身の蕭一傑(しょういっけつ)。奈良産大からドラフト1位で入団し、3年目の2011年、1軍デビューを果たした。

 現役では他に左腕投手2人。川崎雄介は巨人球団代表を退いた清武英利と同じ宮崎南卒。ロッテ時代08年に最優秀中継ぎ投手となった。今季、セ・リーグ新人最多記録の33ホールドと活躍した榎田大樹の出身は鹿児島県大崎町。小林西に進み、福岡大―東京ガスと成長していった。

 南牟礼(みなみむれ)豊蔵は阪急、中日と移り、自由契約となった後、阪神入団。「トヨゾー」と親しまれた。阪神で4試合出場に終わった梶原康司は退団後、松下電器(現パナソニック)で主軸打者として活躍を続ける。

 入江淳は大淀2年の58年夏に甲子園出場。二塁手で投手でも登板した。水谷実雄は64年夏の甲子園にエース4番で4強進出。阪神では2軍コーチとして若手育成に努めた。 =敬称略=

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