猛虎人国記

猛虎人国記(48)~鹿児島県~ 快進撃呼んだ「ヘッド」の亀山

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 亀山努(現スポニチ評論家)は大阪市港区に生まれ、小学校卒業時に両親の故郷、奄美大島に移り住んだ。高校は双子(一卵性双生児)の弟、亀山忍(現タレント)とともに誘いのあった鹿屋中央に進んだ。

 亀山は1年夏から捕手4番。左腕の弟はエースでバッテリーも組んだ。三塁手となった2年秋の鹿児島大会を制した。3年夏は弟が負傷して投げられず、準々決勝で敗れた。甲子園経験はない。

 調理科で学び、調理師の免状を持つ。「餃子の王将」に就職しようと思っていた。1987年(昭62)、ドラフト外で阪神から声がかかった。評判だった弟を見に来たスカウトの目にとまった。

 阪神では俊足を生かし外野転向。90、91年と2年連続でウエスタン・リーグ首位打者となった。

 ブレークはプロ5年目の92年。背番号67から00に変え、メガネと一塁へのヘッドスライディングが人気を呼んだ。2番打者ながら4月は犠打ゼロ。快進撃を続ける阪神の象徴的存在で、制定されたセ・リーグGOGO賞の第1回受賞者となった。オールスターファン投票では当時破格の50万票超え。「亀新コンビ」の新庄剛志の人気が若い女性だったのに対し、「僕のファン層は子どもとおばちゃん」だった。

 前年91年秋に渡ったフロリダ教育リーグで、ハングリーな米1Aの外野手が守備位置まで全力疾走、一塁へは頭から飛び込む姿勢に、引率のコーチ・石井晶から「自分をアピールすることが必要だ」と助言を受けた。高校時代も行っていたヘッドスライディングがチームに勢いを与え、代名詞にもなった。

 ただ激しいプレーで翌年から故障が相次ぎ、97年、28歳の若さで引退。最後の試合でもヘッドスライディングを見せた。

 鹿児島初の阪神選手は投手・内司(ないじ)正弘。52年、かつての特攻基地・知覧の薩南工からテスト入団した。53年、国鉄戦で完封で初勝利。これが唯一の勝利となった。54年、打力を生かし打者(内野手)に転向した。

 鹿児島実が甲子園初出場した61年夏の外野手が宇都(うと)宗夫。鹿児島商62年夏の甲子園で、天理、広陵を連続完封した左腕が浜崎正人。3番・中原全敏(勝利=東映)、4番・下須崎詔一(西鉄)、秋葉敬三(西鉄)もプロ入り。浜崎は阪急から71年、阪神に金銭移籍して現役を終えた。

 中原勇は鹿児島高2年の67年夏、一塁手で甲子園出場。日鉱佐賀関で投手に転向し東映入り。阪神に金銭移籍した。

 現役で大和(前田大和)がいる。樟南の遊撃手として1年夏、3年夏と甲子園出場。3年時は8強入りした。守備は華麗かつ堅実。高校野球中継を観ていた当時監督の岡田彰布が二塁寄りのゴロをさばく姿でスカウトに獲得を進言した。故郷の鹿屋市で新年から自主トレを行い、プロ7年目の今季にかけている。

 樟南が鹿児島商工といっていた時代の先輩が川名慎一。2年夏の甲子園に出場。日本ハムを戦力外となった97年オフに阪神テストを受け、1シーズンだけ在籍した。04年から日本ハムでコーチを務める。=敬称略=

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