猛虎人国記

猛虎人国記(35)~富山県~ 花咲いた「アゴヨシ」の情熱

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 今も本紙で4コマ漫画を連載するコジローがキャンプ地を巡る企画が1992年2月にあった。阪神で取り上げたのが吉田浩だった。

 当時プロ3年目。1軍経験はなく、2軍でも打率1割台。コジローが目にとめたのは安芸市営球場のトイレで見かけた落書きだった。<がんばれ64番 そのガッツはいつか花咲く時がある>

 「ジ~ンときた」と、そのまま絵に描いた。「64」は吉田浩の背番号(当時)で、吉田姓が多いため「アゴヨシ」と呼ばれていると説明した。紙面では<花咲け! アゴヨシ>の大見出し。本人も喜んでくれた。

 高岡第一からドラフト6位。忍耐強い努力家。そして、落書き通り闘志と情熱にあふれていた。

 同期入団の新庄剛志が大リーグ・メッツに移った01年、「ヒロシに感謝したい」と語っていた。「試合に出るだけで感激して、いつも目が輝いていた。僕に原点を思い出させてくれた」

 1軍初出場は6年目の95年。初安打は三浦大輔(横浜)から放った本塁打。01年9月23日の中日戦(甲子園)では初めてお立ち台に上った。02年限りで自由契約。退団後、トライアウトでの打撃が目にとまり、社会人・住友金属鹿島に入った。03年、4番として都市対抗で活躍、W杯日本代表にも選ばれた。立派な花を咲かせたのだ。

 野球部を退いた今も同社(大阪)で働く。この日札幌で開幕したNPBジュニアトーナメントで阪神のコーチを務める。大会前の練習を拝見にいくと、少年を指導する目は輝き、言葉に出る情熱も失(う)せていなかった。

 吉田浩の前に「64」を背負っていたのが同じ富山県人の投手・長谷川尚生だった。入善(にゅうぜん)から87年、ドラフト外で入団。2シーズンで任意引退。地元富山のクラブチームで指導をしていた。

 河(かわ)文雄は富山県出身のプロ野球選手第1号。50年秋の阪神入り。

 シュート、ドロップが光った右腕で、戦前、高岡中の「嘆きのエース」と呼ばれた。高岡商、富山商と渡り合って敗れ、最上級 の41年は戦争のため大会中止。甲子園出場を 果たせなかった。卒業後、中国に渡り満鉄倶楽部。戦後、母の故郷、小樽 協会に入った。48年には都市対抗にも出た。

 阪神では51年4月8日の広島戦(広島県営)で完投勝利。この直後、右肘を痛め、これが唯一の勝利となった。

 富山県と言えば、「プロ野球生みの親」正力松太郎を書いておかねばならない。1885年(明治18)、高岡市にほど近い富山県射水(いみず)郡枇杷首村(後の大門町、現射水市)に生まれている。

 巨人創設の際、阪神電鉄に球団創設を持ちかけた。「競争は発展の母」とライバルに指名したのだ。信条に「利行(りぎょう)は一法なり」とする禅の教えがあった。「普(あまね)く自他を利するなり」と利益を独占しない。「大正力」と呼ばれるスケールの大きさがあった。 =敬称略=

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