猛虎人国記

猛虎人国記(58)~神奈川県(下)~ 勲章となった初の12球団勝利 野村収

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 野村収が全球団勝利を達成した時、本紙が描写している。<ウイニングボールをいつものクセでスタンドに投げ込みかけた。「待った! 大事にとっておいてほしい」山本の声でそっとポケットにしまい込んだ>

 1983年(昭58)5月15日の甲子園。古巣大洋(現DeNA)を7回2失点。救援の山本和行から受けたボールは「集めたことがない」という初の記念球となった。

 交流戦のない当時、セ・パ2チーム以上に在籍しないと達成できない。大洋→ロッテ→日本ハム→大洋→阪神と移籍した「渡り鳥」の勲章だ。野村の後、工藤公康まで計6人が記録している。

 野球では無名の平塚農出身。1位指名する大洋スカウト・湊谷武雄(後の球団代表)も「地元の神奈川県にこんな好投手がいたのか」と高校時代はノーマークだった。駒沢大3年時から頭角を現し、4年春は7勝をあげ優勝、最高殊勲選手。田淵幸一、星野仙一、有藤通世、東尾修ら大豊作の68年ドラフトだった。

 75年最高勝率、78年最多勝。85年も19試合に登板し(1勝)、阪神優勝に貢献。86年、40歳まで投げた。目標の500試合登板を超え579試合で121勝。引退後、阪神では87年コーチ、93年スカウト、94―95年コーチ。昨年末、東京国際大の監督・古葉竹識がコーチで招く意向を示した。

 野村が快挙を達成した試合の2番センターが北村照文。この83年はリーグ最多の31犠打を記録した。武相から進んだキャタピラ三菱が野球部解散。三菱重工名古屋に移り、79年都市対抗で大会初のサイクル安打。同年ドラフト3位。強肩俊足好守。センターゴロを記録し、本塁打性飛球をフェンスに上って好捕した。西武、中日と移って現役を終え、95年復帰。スカウトを務める。

 竹之内雅史は鎌倉学園で62年選抜に出場。63―67年と5年間、日本通運(浦和)でプレーし西鉄(現西武)入り。79年、田淵らとのトレードで真弓明信、若菜嘉晴らと阪神に移籍した。1年目4番を打ち、球宴前に17本塁打を放った。シーズン最多死球7度、通算166死球は清原和博に抜かれるまでプロ野球記録だった。05年から堺市の羽衣国際大監督、総監督で指導している。

 東海大相模からは3人。岡部憲章は高校時代、左腕・村中秀人の陰に隠れ、甲子園では2年春に1イニング投げただけ。ドラフト外で日本ハム入りし、81年最優秀防御率。87年オフに阪神に移籍し、88年には5年ぶりの完投も記録した。早川健一郎は02年ロッテ解雇後に入団テストを受け入団。優勝した03年8月、ヤクルト戦で2試合連発した。一二三慎太は大阪・堺市出身。ジュニアホークスでジャイアンツカップ優勝。高校3年春夏と甲子園に出場し、夏は準優勝。今年から野手に転向する。

 桐蔭学園から3人。関川浩一は1年夏に甲子園。駒沢大からドラフト2位。中日―楽天と移り、昨年オフ、コーチで阪神に復帰した。97年夏の甲子園出場時の主将が平野恵一、エースが浅井良だった。

 88年ドラフト2位の鶴見信彦は向上3年夏、3番遊撃で神奈川大会決勝で敗退。4番捕手が大塚義樹(南海)、5番投手が高橋智(阪急)だった。矢野正之は霧が丘で2年留年し“5年生”で監督も務めていた隠し玉。3年目には1軍で3試合に投げた。現役捕手の小宮山慎二は横浜隼人初のプロ。昨年12月に結婚し、9年目に挑む。 =敬称略=

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