猛虎人国記

猛虎人国記(25)~静岡県(下)~ 自転車通勤の庶民派クローザー

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 あの時すでに田村勤の左肘はぼろぼろだったのだろう。シーズン最後まで優勝を争った1992年、開幕からクローザーを務めた。左横手からの速球は打球をバットを空を切らせ、打球が前に飛ばない回転と伸びがあった。あの登板前の時点で5勝0敗14セーブ、防御率0・69だった。

 そんな田村が打たれた。130試合制の中間64試合目、6月28日の中日戦(甲子園)。2点リードの9回、4失点で初黒星を喫した。翌朝のスポニチ見出しは<まさか、まさか>。原稿は<田村は笑っていた>と書き出した。敗戦後のベンチ裏スロープで見せた笑顔で訴えたかったのだろう。「投球に好不調はあるが、気力に波はない」が口癖だが、もう、どうすることもできなかったのだ。この1週間後、登録抹消となり、同年再び1軍に戻ることはなかった。

 榛原(はいばら)郡川根町(現島田市川根町)の出身。島田では最高県8強。駒沢大4年で横手投げに変え、本田技研(和光)からドラフト4位での入団だった。風ぼうから「たむじい」「ウナギイヌ」と呼ばれた。甲子園の自宅から自転車で通う庶民的な側面が人気を呼んだ。

 93年に球団記録の10試合連続セーブ(08年、藤川球児が更新)。00年オフにオリックスに移り、02年には生涯1度の先発で1人に投げ、現役を終えた。引退後、整骨院を開業。自身の経験から小中学生などの故障予防や指導も行っている。

 あの敗戦の日、マウンドで田村から優しく白球を奪い取った投手コーチ・大石清も静岡県出身。清水商から広島入りし「カミソリ」のシュート系速球で3年連続20勝。根気強い指導に定評があった。厳格だが、92年終盤には「優勝のかかった試合には田村を呼ぶ」と温情も見えた。71歳の今は鳴尾浜近辺で散歩を楽しんでいるそうだ。

 榊原良行は67年夏、浜松商主将で甲子園出場。中央大、日本楽器を経て75年入団。バットを短く持った、しぶとい打撃と内野守備が光った。真弓明信、岡田彰布と相次いで内野手が入団し、晩年は日本ハムに移った。引退後10年間務めた阪神コーチ時代、選手思いで、練習の合間、懸命にトンボで地面をならす姿が目に浮かぶ。台湾・兄弟でもコーチに招かれ、昨季も務めた。

 東海大一(現東海大翔洋)から日本軽金属を経て入団の後藤和昭はジュニアオールスターMVP。2年目70年からは三塁手に定着。掛布雅之に定位置を奪われた。

 広島-中日-ロッテと渡り歩いた長嶋清幸は94年移籍。自動車工(現静岡北)の名前を有名にした。今オフ、ロッテ2軍コーチから1軍打撃コーチに昇格した。

 阪神初の静岡県出身者は村田弘で、46年、沼津中(現沼津東)エースとして西宮で開催された夏の全国大会に出場。2軍制度を設けた50年に入団した。長尾旬(ひとし)は御前崎市の池新田(いけしんでん)から東洋レーヨンを経てテスト入団。54年10月24日の巨人ダブルヘッダー第2試合(甲子園)で先発登板。初回に3長短打され3失点で降板。唯一の1軍登板となった。沼津学園(現飛龍)出身では西武から移籍の杉山賢人、優勝の03年に勝ち星もついた伊代野(いよの)貴照がいる。=敬称略=

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