猛虎人国記

猛虎人国記(19)~石川県 加賀百万石の沈黙破ったテスト生(大根) サヨナラ弾で1面飾った笠間

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 1920年(大9)、日本初のプロ野球チーム「日本運動協会」(芝浦協会)を創設した河野(こうの)安通志(あつし)が石川県大聖寺町(現加賀市)の出身。父は加賀藩士だった。

 51年(昭26)2月3日付のスポニチに「プロ野球出身地調べ」という記事と一覧表が載っている。石川県は計4県ある「0」で理由に<雪国のハンディ>とある。記事が出た51年に同県初のプロ野球選手が誕生した。阪神の横井啓二だ。捕手・内野手で、正式な選手登録は翌52年だった。

 48年、金沢三中(現金沢桜丘)で選抜出場。卒業後進んだ社会人・日鉄二瀬の監督・真野春美が阪神監督・松木謙治郎の明治大の後輩で、投手・三船正俊とともに譲り受けた。阪神では1軍出場なく、53年限りで退団。再び日鉄二瀬に戻り、都市対抗にも出た。プロアマの壁もなく、当時の自由な交流がうかがえる。

 金沢桜丘からは投手・大根晃、捕手・西能(さいのう)勇夫が続いた。

 大根は53年選抜に出場し、初戦で浪華商(現大体大浪商)に敗退。同年夏の石川大会で準決勝、決勝と2試合連続ノーヒットノーランの快投を演じたが、北陸大会で金沢泉丘に敗れた。同年秋にテストを受けての入団。1年目の54年7月8日の洋松戦(大阪)に先発でプロ初登板。元阪神の藤井勇に本塁打を浴びて2回で降板したが、石川県人の阪神初出場だった。06年に母校が21世紀枠で選抜出場した際にはアルプス席に駆けつけた。

 西能は金沢鉄道管理局を経由。57年11月8日、本間勝、遠井吾郎らとともに入団発表された。

 金沢―電電北陸で1年上の堂上照(中日)とバッテリーを組んだ笠間雄二は3度目のドラフト指名で巨人入り。80年1月に阪急、同年11月に阪神へと移籍した。

 83年は正捕手として127試合に出場、規定打席にも達した。同年6月25日の中日戦(甲子園)ではサヨナラ本塁打を放ち、翌日のスポニチ1面をヘルメットを手に飛び跳ねる写真が飾った。オールスターにも出場している。引退後はコーチや広報担当も務め、現在は「スポーツデポ」アドバイザリースタッフとして働いているそうだ。

 同じく金沢の中林佑輔は01年選抜に出場。1軍昇格はなく、07年から打撃投手を務める。

 現ロッテ2軍コーチの金森栄治(永時)の出身は金沢市だ。07-09年、BCリーグ・石川で監督を務めた。

 小嶋達也は大阪市出身で、金沢市の遊学館に野球部1期生として進んだ。02年夏、03年春と甲子園出場。大阪ガスを経て希望枠での入団。1年目の07年4月1日、早くも開幕3戦目の広島戦(京セラ)に先発でプロ初登板を果たし、見事勝利投手となった。
 石川県と阪神で言えば、星稜・松井秀喜のドラフト前に根上町(現能美市)の自宅を訪ね目にしたトラのマスコットを思い出す。=敬称略=

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