猛虎人国記

猛虎人国記(38)~兵庫県(下)~ 320勝投手が感激した3千円

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 神戸から西へ行く。

 明石(旧明石中)から5人。松下繁二は1933年(昭8)夏の甲子園で中京商と延長25回を戦った三塁手。スポニチ連載『猛虎の地』で伝えた名物ファン、「タイガースばあさん」こと田野エイの推薦があった。近畿・南海で3年連続盗塁王の河西俊雄は2リーグ分立の50年に移籍。引退後は名スカウトとなった。奥村高明は河西の5年先輩。大津淳は47年選抜に捕手で出場。関西大で強打の外野手、「ミスター関六」と呼ばれた。55年都市対抗に全鐘紡に補強され、4番で優勝した。同年オフに阪神入り。1年目から主軸を打った。引退後は編成部長などを歴任。柴田佳主也は近鉄、日本ハムを経ての入団だった。

 加古川東から松沢勉。現役の藤井宏政は加古川北が08年夏の甲子園に初出場した時の3番・遊撃手。

 歴代3位の通算320勝、小山正明は高砂出身。3年夏も兵庫大会初戦敗退。父親が遠縁にあたる阪神オーナー・野田誠三に手紙を書き、テストを受けての入団だった。契約金なし、大卒初任給1万円の当時、月給5000円だった。1年目53年9月6日名古屋(現中日)戦(中日)で完投、2勝目をあげた夜、宿舎で監督・松木謙治郎に呼ばれた。「勝利投手が部屋に引きこもってどうする?」と3000円を渡され「街に出てこい」。小山は「腰が抜けた」という大金だった。

 62年優勝で沢村賞。最高殊勲選手(MVP)は村山実となり、連盟は特別に「優秀功労賞」を贈った。翌63年オフ、山内一弘との「世紀のトレード」で大毎に移籍した。

 小野から初のプロに山本晴三。大商大から南海入り。自由契約となり、阪神に移った。引退後、大体大で学び、82年からトレーニングコーチ。04-09年は虎風荘寮長を務めた。現役の捕手・清水誉は関学大から入団。三田学園からは捕手・久代義明。西脇の宮崎逸人唯一の勝利が巨人戦だった。

 姫路に移る。姫路南から4選手。切通猛は芝浦工大、東芝から阪急入り。阪神に移り代打で活躍した。加納茂徳は新日鉄広畑から入団。唯一の安打は星野仙一(中日)からだった。山下一義、浅野憲一は1軍出場がない。黒田正宏は南海、西武で現役を終え、99年バッテリーコーチで入団。03年編成部長、今はシニアアドバイザー(SA)だ。

 東洋大姫路からプロ1号が山川猛。72年夏の甲子園で掛布雅之のいた習志野戦で満塁本塁打。西武から阪神に移り、84年には114試合で10本塁打した。嶋尾康史(慶一)は長谷川滋利との両輪で86年夏の甲子園8強。92年後半に見せた快速球に期待し、野田浩司放出-松永浩美獲得のトレードに及ぶ。だが嶋尾は右ひじ手術で再起はならなかった。引退後は俳優として活躍する。

 姫路中(現姫路西)の釣常雄は36年選抜出場。法政大から38年入団。荒れ球で打撃練習では味方の打者が逃げた。

 龍野実からは捕手・中村利一、広島経由で投手・上田好剛。

 伊丹に戻って県伊丹から柏木裕。伊丹北の山岡洋之は東北福祉大から。通算41試合に投げたが勝利は遠かった。

 社から3人。宮田典計は鐘淵化学から入り78年中日戦で唯一の白星がある。山本重政は近鉄で64年12勝。阪神では救援で投げ、引退後はスコアラーで貢献した。本田明宏はダイエーからブルペン捕手で入団だが選手登録もされた。

 最後に淡路島。洲本実から投手・赤松瞭と捕手奥田修。洲本から名手、鎌田実。63年フロリダキャンプで学び、日本で初めてバックトスを導入した。09年から神戸大海事科学部監督を務める。=敬称略=

続きを表示

バックナンバー

もっと見る