猛虎人国記

猛虎人国記(63)~山口県~ 愛し、愛され阪神20年 「仏のゴロー」

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 遠井吾郎は柳井3年の1957年(昭32)選抜に4番一塁で出場、準々決勝で早稲田実に0-4で敗れた。1年下の左腕・王貞治に4打数無安打3三振。翌年夏に全国優勝を果たす当時2年生の友歳(ともとし)克彦(法政大-日本石油)を5回1死から救援し、王にカーブを左前適時打された。後にセ・リーグ一塁手で競う王との初対面だった。

 同年、スカウト1年目の河西俊雄に「ウチ(阪神)を愛しているなら来てくれ」と口説かれ、入団を決めた=澤宮優『ひとを見抜く』=。63年に一塁の定位置を奪い4番を打った。66年は長嶋茂雄(巨人)と首位打者を争い2位。67年5位、70年3位と10傑に名を連ねた。77年、37歳で引退するまで、阪神での現役20年は今季21年目を迎える桧山進次郎に次ぐ。

 鈍足だが、70年のオールスター戦(広島)で右翼線打がランニング本塁打になった。温厚で「仏のゴロー」と呼ばれ、皆に愛された。酒豪で鳴らし、田淵幸一や川藤幸三もよく連れられた。飲んでは打ち、打っては飲んだ。引退後、コーチ業は1年で辞め、大阪・北新地でスナックを営んだ。店は晩年、故郷・柳井で続けた。05年6月、肺がんのため65歳で逝った。

 柳井で遠井の2年先輩となる清水希人(まれひと)は遊撃手。退団後、電電東京で都市対抗に出場した。

 同じ市内の柳井商工から57年・新田法昭、58年・槙尾達男と相次いだ。柳井商となって大町定夫(定生)。新日鉄光に進み三菱重工広島の補強で出た79年都市対抗で優勝、橋戸賞。下手投げ即戦力で2年目81年は50試合7勝8セーブで防御率1・91。実働4年で引退後、球団要職を歴任する。右腕・嶋田(しまた)哲也は王子製紙米子から入団後、左肩鎖骨骨折、右肘靱帯(じんたい)部分断裂など故障が続いた。93年7月29日広島戦(甲子園)での勝利が最初で最後となった。99年からセ・リーグ審判員を務める。

 高井良(たかいら)一男は下関商で田中俊幸(南海-セ・リーグ審判部長)と同期。有光磐明は2年の61年選抜出場。阪神では1軍1打席に終わり退団。大学で学び、税理士として活動する。

 富恵(とみえ)一は外野手で萩高から関西大に進み、64年入団。1年目に24試合に出た。長門の枝川正典は78年2位。甲子園経験はないが、能代・高松直志(電電東北)と並称された左腕だった。

 宇部商の松永美隆は大型投手。ヘッドコーチに就いた有田修三の2年後輩にあたる。
 坂本義雄は早鞆のエースとして2年生の66年夏の甲子園で甲府工に逆転負け。西村一孔の弟・公一(阪神)に3安打(2二塁打)された。3年で4番も打った67年夏は松商学園に零敗。同期の山本譲二(歌手)が代打で安打を放った。

 忘れてならないのは御園生崇男だ。山口中(現山口)で33年選抜に出場。関西大を中退し、36年の創設メンバーに加わった。37年秋-38年春と18連勝を記録、優勝に貢献した。戦後は主将も務めた。俊足で登板しない時は一塁・外野も守り通算87盗塁、しかも本盗6個。ロイド眼鏡の風貌から「銀行員」と呼ばれた。=敬称略=

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