猛虎人国記

猛虎人国記(12)~秋田県~ 新人で日本一に貢献した救援左腕

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 秋田とタイガースを語る前に記しておきたい人物がいる。球児が記念に持ち帰り、プロも最高と評価する甲子園の土を生み出した石川真良(しんりょう)(1890-1969年)だ。

 後に落合博満(前中日監督)を生む若美町出身。秋田中から進んだ慶応大の第1回米国遠征時のエース。1924年(大13)完成の甲子園球場建設当時は阪神電鉄用度課にいた。野球経験を買われ、土の責任者となった。不規則バウンドせず、水はけがよく、白球が見えやすい理想的な土を求めて、全国から取り寄せ、自ら滑り込んで試した。最終的に淡路島の赤土と神戸・熊内(くもち)の黒土を川砂と混ぜ合わせた。

 晩年は故郷で英語や野球を教えた。教え子たちを訪ね、話を聞いたことがある。「今日は昨日より、明日は今日より」を座右の銘とし「決して怒らない人でした」と愛情豊かな人柄に触れた。

 秋田県人の入団第1号は渡辺誠太郎。土崎商(後に秋田商に併合)から1941年(昭16)の入団。松木謙治郎は<当時としては驚くほどの長身>と書くほどで身長6尺(1メートル82)の右腕。46年には開幕投手を務め10勝。一塁手でも起用され、同年は打率・288、2本塁打を残した。

 滝田政治は秋田中から秋田鉱山専門学校(現秋田大)、ノンプロ中央工業を経て、48年急映入り。阪急では60-61年とキャプテンを務めた。阪神には61年オフの入団で背番号「1」。62年のリーグ優勝、日本シリーズも経験し、15年に及んだプロ生活を終えた。

 プロ1年目から優勝、日本一を味わったのが佐藤秀明だった。秋田市立(現秋田中央)から東洋大、日立製作所を経てドラフト2位で85年入団。新人ながら貴重な救援左腕として起用され、37試合に投げた。優勝決定試合でも投げ、日本シリーズでも連投した。89年移籍した近鉄でも47試合に投げ7勝4セーブをあげ、いきなり優勝に貢献した。引退後は甲子園球場近くで焼き肉店を開いていた。2007年3月17日、脳内出血で急逝。46歳の若さだった。

 象潟(きさかた)町(現にかほ市)出身の竹内昌也(よしや)は本荘2年夏に甲子園出場。NTT東北からドラフト2位入団。「ロングマン」(長いイニングの救援)や先発で95年10勝、97年8勝。今は中日で打撃投手を務める。藤田太陽は新屋(あらや)から川崎製鉄千葉(現JFE東日本)を経ての入団。巨人と争奪戦の末、逆指名での獲得だった。07年移籍の西武で今も活躍している。

 中川申也は秋田経法大付(現明桜)1年の89年夏に甲子園出場し、準決勝まで進出。愛らしいマスクでアイドル的人気を得た。2年春夏も出場。阪神では米国派遣など期待されたが、1軍登板を果たせなかった。

 最後にもう一つ。15年(大4)、豊中で始まった全国中等学校優勝野球大会(今の夏の甲子園)で準優勝した秋田中は決勝で敗れた京都二中を万歳三唱で祝った。佐山和夫は『野球、この美しきもの。--アメリカン・ベースボールと秋田野球』で<秋田の野球が非常にフェアであるという伝統は間違いない>と記している。=敬称略=

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