猛虎人国記

猛虎人国記(21)~愛知県(中)~ 「鶴の恩返し」伊藤敦の連投 江夏支えた「ダンプ辻」

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 全国最多、甲子園春夏通算131勝の中京商(現中京大中京)からの阪神入りは11人を数える。

 創設初年度1936年(昭11)に加わった加藤信夫は甲子園3連覇の一員でもある。専修大中退で入団。37年、監督・石本秀一が甲子園で行った秘密練習。仮想沢村栄治で投手板の前から投球した3投手の1人だ。加藤はこれで肩を痛め内野手転向となった。

 野口昇は「野口4兄弟」の三男。三塁手。42年は全試合出場。終戦前、大洋の次兄・二郎―長兄・明のバッテリーを相手に打席に立った。<流石(さすが)に兄両人は弟に打たせなかった>=竹中半平『背番号への愛着』=。

 戦後に移り、56年選抜優勝の4番が星山晋徳(しんとく)、1年下のエースが本間勝。ともに57年11月8日、入団発表され、本紙は星山を<屈指のスラッガー>、本間を<超高校級>と評した。本間は3年目の60年に13勝をあげた。64年王貞治4打席連続本塁打の4本目を献上したが、王と53打席対戦して被本塁打はこの1本だけだった。65年オフに西鉄移籍。引退後は新聞記者14年の後、阪神球団の営業、広報担当、OB会役員を務めた。

 61年春夏甲子園メンバーの中堅が相羽欣厚(よしひろ)(巨人―南海―阪神)。三塁の江藤省三(慶大―巨人―中日)ら4人がプロ入りした。相羽は現役最晩年に阪神に移り、引退後9年間コーチを務めた。江藤は09年12月から慶大で監督を務める。今月7日にあった三田倶楽部の関西激励会にドラフト1位の新人・伊藤隼太とともに招かれた。阪神入りで宴席招待が増えると案じるOBに「いや、伊藤隼は大丈夫。自分をしっかりもっている」と太鼓判を押した。

 横手投げの伊藤敦規は福井工大4年時、ロサンゼルス五輪で2勝をあげ、金メダルに貢献。熊谷組から阪急、横浜と移り自由契約。「好きだった阪神が不合格ならあきらめもつく」とテストを受けての入団。「鶴の恩返しじゃないが、羽をむしるつもりで投げた」と97年から5年連続50試合登板。通称「カレーパン」の黄色いグラブで連日マウンドに上った。

 東邦商(現東邦)からは8人。41年入団の松本(後に木下)貞一と玉置(後に安居)玉一はともに静岡県出身、若林忠志が勧誘した。古くからある「とんぼが止まるような緩い球」とは松本から始まった表現らしい。日比野武(阪急)とのバッテリーで39年選抜を制した。

 山田勝彦はプロ5年目の92年に正捕手をつかんだ。観察眼を養い、試合後に「今日、○○の動きで狙いが分かった」と、うれしそうに語っていたのを思い出す。

 捕手なら享栄商(現享栄)出身の辻恭彦(やすひこ)がいる。「ダンプ辻」と呼ばれ、同姓の捕手、辻佳紀の「ヒゲ辻」と区別した。西濃運輸で都市対抗出場後の62年8月に入団した。田淵幸一らとの競争で長い下積みに耐え、68年、江夏豊と組んで表舞台に出た。江夏は自伝『左腕の誇り』で<ダンプさんはそれまで何の実績もなかったけれど、たまたま僕と組んで配球を工夫してくれた>と記している。田淵が腎炎を患った71年にはセ・リーグ捕手で初の全試合出場を果たした。 =敬称略=

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