猛虎人国記

猛虎人国記(15)~北海道~ 王の本塁打記録止めた平山 

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 戦前戦後とプロ野球・日本野球連盟は富士銀行(現みずほ銀行)数寄屋橋支店に口座を置いていた。終戦の1945年(昭20)11月、復活を告げた東西対抗の入場料金を収納に行くと、若い行員が窓口で「野球はいいですねえ」と話しかけてきた。数日後には連盟事務所を訪れ「どうしても野球の仕事がしたい」と直談判。連盟幹部、後のセ・リーグ会長・鈴木龍二が<銀行員から野球屋とは妙な奴(やつ)だが、熱心さに打たれ>採用した=『鈴木龍二回顧録』=。

 後に阪神の名物スカウトとなる佐川直行である。札幌商(現北海学園札幌)出身。立教大で捕手を務めた。銀行員から連盟、そして大映、中日でスカウトを務め、阪神へは57年に移った。並木輝男、村山実を担当。第1回ドラフト会議で無名の石床(いしとこ)幹雄を1位指名した。王貞治を手中にしながら巨人にさらわれ、仕返しに「巨人熱望」の田淵幸一を奪った。

 そんな敏腕が66年第1次ドラフト(当時は2回開催)で2位指名と評価したのが釧路江南の右腕・平山英雄だった。夏の甲子園大会に出場し初戦敗退している。背番号は31だった。1位が同じ高校出、あの江夏豊(大阪学院)である。

 67年のキャンプ。2人が並んで走る姿に佐川は「駄馬(だば)と駿馬(しゅんば)」と評し、平山をたたえた。「たぬき親父」の佐川は江夏の発奮を促した面もあろうが、実際に平山の評価は高かった。1軍デビューは4月13日大洋戦(川崎)と江夏より早い。
 6年目の72年には7勝をあげた。9月21日の巨人戦(甲子園)では王の連続本塁打を7試合(今も記録)で止めた。前日は村山も被弾していた。先発した平山は右飛、一ゴロ、右前打。8回途中から江夏の救援を受け、勝利投手になった。

 74年オフ、トレードでロッテ移籍。引退後は神戸で損保会社に勤めた。

 阪神初の北海道選手は下手投げ右腕の干場(ほしば)一夫だ。旭川中(現旭川東)で戦前「幻の甲子園」と呼ばれる42年の大日本学徒体育振興会主催の全国大会に出場。日鉄輪西(わにし)製作所(現室蘭シャークス)、旭川鉄道管理局を経て50年に入団。1年目10勝と即戦力となった。同年4月22日の中日戦(熊本)では史上初めて「偵察要員」として先発メンバーに使われた。

 石井宏は北海道日大(現北海道栄)で選抜に出場。日大から1位指名で阪急に入った。右肩を壊し内野手転向後に自由契約。89年、阪神に再び投手としてテスト入団した。このほど京都両洋高に保健体育教師として赴任し、今春4月創部となる女子野球部の初代監督に決まっている。

 星野伸之はFAで獲得。00年、01年と2年連続で開幕投手を務めた。02年限りで引退。阪神でもコーチを務めた。投手コーチなら佐藤義則が03年の優勝を陰で支えた。監督も務めたハワイ出身「カイザー」田中義雄は戦後、進駐軍の通訳で札幌にいた。

 開拓使仮学校(後の札幌農学校-北大)で1873年には野球が行われた。45年9月30日の札幌鉄道-札幌倶楽部戦が新聞に残り<記録に残る戦後初試合>=山室寛之『野球と戦争』=。北海道には野球進取の歴史がある。=敬称略=

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