「160キロ狙える」中日・ネイラーはい上がりの軌跡

[ 2015年7月25日 11:00 ]

活躍を誓うネイラー(左)とペレス

 「ここ2シーズンはプレーしてなかったんだ」

 2015年1月4日、ドリュー・ネイラーは、そう言い残して、先発のマウンドに向かった。2012年8月10日にフロリダ・クリアウォーターでA級リーグのマウンドに立って以来、実に2年5カ月ぶりの登板だった。

 2006年、20歳でフィラデルフィア・フィリーズと契約を結んだ193センチの長身右腕は、ルーキー級から始まるメジャーへの階段を順調に駆け上がっていった。2008年にA級で先発ローテーションを守り、8勝10敗、156奪三振の数字を残すと、翌2009年春、WBCのオーストラリア代表選手にも名を連ねた。このシーズンもA級のローテーションを守った彼に球団はメジャー契約を用意した。

 そのオフに創設された母国のウインターリーグ(オーストラリアン・ベースボールリーグ/ABL)。彼は地元チームのブリスベン・バンディッツに合流していたが、ロースターには名を連ねてはいなかった。万が一のケガで金の卵に傷をつくのをフィリーズが恐れたのだ。

 しかし、競争の激しいアメリカでは、実績のない若手へのメジャー契約など空手形にすぎない。翌年春のキャンプで結果を残せなかったネイラーに待っていたのは、マイナー契約への切り替えだった。シーズンに入ると2Aで12勝を挙げたが、今度はヒジの故障が彼を襲う。トミー・ジョン手術で2011年シーズンを棒に振った彼との契約をフィリーズは非情にも解除。

 故障が癒えた、とみなした翌シーズン、再契約が結ばれたものの、2Aからスタートしたマウンドは、今までのキャリアを逆にたどるように落ちてゆき、ついにはプロキャリアをスタートさせたフロリダのスタンドもない練習グラウンドで最後を迎えた。

 「無理してアメリカに行くことはないって言ったのにね」と、オーストラリア・リーグの関係者は当時を振り返る。オーストラリア人にとって野球での成功とは、本場アメリカで頂点のメジャーの舞台に立つこと、であるのは間違いない。しかし、野球の世界にはもう1つの成功「ジャパニーズ・ドリーム」があることをネイラー自身も気づくことになる。

 この2年、必死でリハビリに取り組んだ。そのうち、18カ月はボールを握ることもしなかったという。

 そして、復帰登板。2015年1月4日は、ネイラーにとっての新しい出発の日であった。ここが本当にオーストラリアなのか……と思わせる蒸し暑い中でのデーゲーム。4回2失点で負け投手となってしまったが、5奪三振は球威が十分に戻ってきたことを示していた。

 この冬のシーズンは、3試合で勝ち星なし、防御率7.24に終わったものの、球威が戻った右腕に新たな挑戦の場が与えられた。四国アイランドリーグplusの香川オリーブガイナーズがオファーを出したのだ。

 ウインターリーグで調整済みのネイラーの剛球は、四国でうなりをあげた。11試合で4勝1敗2S、防御率1.37。先発すれば、1試合のうち10球は150キロを記録した。

 「まだ、全開では投げてないよ。全力で投げれば155キロは出る」

 という本人の声をよそに、ネット裏に陣取ったスカウトたちは、「いいや、160キロも狙えるんじゃないか」と色めき立った。

 NPBの舞台が近いとみた球団は、「筋力アップのためのサプリメントと肉が必要だ」というネイラーの月給500ドルのアップ要求にもOKサインを出した。しかし、このギャラアップもなされたかどうかは定かではない。なぜならば、彼も名を連ねた四国アイランドリーグplus代表選手による北米遠征の後、彼を待ち構えていたのは、もっと大きな契約だったのだから。

 数球団が触手を伸ばす中、7月13日、先発のコマ不足に悩む中日ドラゴンズがドリュー・ネイラーとの契約を発表した。(『週刊野球太郎』編集部)

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2015年7月25日のニュース