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【コラム】金子達仁

重要な判定を個人に委ねる危険性

[ 2022年2月20日 07:00 ]

北京五輪<スノーボード男子ハーフパイプ決勝>3回目の高得点で金メダル獲得を決めた平野歩夢(撮影・小海途良幹)
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 貰(もら)っても嬉(うれ)しくないだろうし、そもそも意味がわからないだろうが、それでも、座布団をあげたくなった。

 イッツォク・スマティックさん。76年、スロベニアのマリボール生まれ。

 北京五輪スノーボード男子ハーフパイプの決勝でヘッドジャッジを務めた彼は、平野歩夢の2回目に低すぎる点数をつけたことをミスだったと認めた上、86年W杯メキシコ大会におけるマラドーナの“神の手”を引き合いに出したという。

 「判定を下してしまったら、後からは変えられないんだ」

 ですよね。

 スマティックさんが10歳だったあの日、20歳のわたしはアステカにいた。目の当たりにした伝説の5人抜きに、自分が壊れてしまいそうになるぐらい興奮した。

 その数分前に起きた“神の手”には、まったく気付いていなかった。

 わたしだけではない。周囲の観客も同様だった。わたしがシルトンやブッチャーが執拗(しつよう)に抗議していた理由を知ったのは、日本に帰国して専門誌の増刊号を読んでからだった。

 きっと、現地のテレビや新聞では報じられていたのだろう。ただ、わたしのスペイン語能力はほぼゼロで、なおかつ、前日に自国代表が西ドイツに惜敗したことで、メキシコは国全体が喪に服したような状態だった。自国とは無関係な国同士の対決で起きた事件の報道に、熱量を注ぐメディアは多くなかった。

 あの日の試合を裁いたのは、チュニジア人のナセルさんだった。当時も今も、アフリカの審判はW杯でふんぞりかえっていられる立場ではない。11万人という大観衆の前で笛を吹くのも初めてだっただろう。

 しかも、真相はどうであれ、観客は熱狂していた。アルゼンチンは中南米で人気のある国ではないが、イングランドの不人気ぶりには負けていた。はるばる乗り込んできたフーリガンを除くと、11万観衆のほとんどはアルゼンチンを応援し、マラドーナのゴールに熱狂していた。

 そこで自らの過ちを正せる審判は、たぶん、いない。サッカー界では新参者と見られる国から来た審判では、なおさら、難しい。66年大会の決勝のように、ミスジャッジがそのまま通ってしまった例は過去にあっても、審判自らが取り消した例はない。自分がその先例となれば、今後、自国からW杯の審判をするという道は閉ざされるかもしれない――。

 無理でしょ、取り消し。

 というわけで、サッカーとは無関係な世界で生きてきたはずなのに、10歳の時に起きた事件を引き合いに出すスマティックさんにいたく感心させられたわたしである。

 ただ、サッカーに限らず、審判たちの置かれた状況は、前世紀とは比較にならないぐらい厳しくなっている。テレビの視聴者はもちろん、いまは会場にいる観客でさえ、何が起きたかを確認することができる。カメラの解像度は劇的に上がり、しかも、そんなカメラが四方八方から動きを捉えている。

 平野歩夢が言ったように、命をかけている選手たちのためにも、スノボの判定方法は改善する必要がある。そして、審判のためにも。

 スマティックさんのもとには、全世界から座布団の代わりに、相当な数の怒りの声が届いているという。世界的なイベントにおいて、重要な判定を個人の主観のみに委ねるシステムは、ネットが普及した時代には、もはや危険でさえある。(金子達仁氏=スポーツライター)

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