復興へのプレーボール~陸前高田市・高田高校野球部の1年~

未来へつなぎたい恩送り 激動の日々と決意と 佐々木明志監督手記

[ 2012年3月11日 06:00 ]

震災から1年を前に選手たちに熱く語りかける佐々木監督

 366日前の2011年3月11日。宮城県東南沖を震源として発生したM9・0の大地震から11日で1年。校舎が壊滅的被害を受けた高田高校野球部の佐々木明志(あきし)監督(48)が激動の1年を振り返り、手記を寄せた。常に頭をもたげる絶望、無力、喪失感。一方、全国からの支援は、忘れかけた夢や希望、勇気をもたらした。これからも続いていく非日常的な日常。それでもいつか、恩に報いると強い決意をつづった。

 あの日から1年になる。振り返ればまさに、激流にのみ込まれたような1年だった。

 3月11日を境に、当たり前の日常が当たり前でなくなり、常に身近にいるはずの家族や友人が突然いなくなることは、誰しも想像ができなかった。学校に行くことや野球をやることが当たり前ではなくなり、毎日生きることに精いっぱいで、われわれも生徒たちも絶望感と無力感を味わった。あまりにも多くのものを失った喪失感は時間が解決してくれるものなのかどうかも、今はまだ分からない。

 震災でわれわれを取り巻く環境は一変したが、ありがたいことにさまざまな支援を通じて多くの方の温かい心に触れ、勇気と希望をもらうことができた。そして、野球がやれる幸せと喜びを純粋に感じることができた。震災後初めて仲間が集まり練習した日のこと、初めての試合でワンアウトを取りみんなで大喜びしたこと…。これからも、決して忘れることはないだろう。

 今、こうして野球を続けることができるのは、実に多くの方々の支援のおかげである。支援がなければ野球を諦めていた生徒もいたはずだ。今もなお、生徒の家庭を取り巻く環境は厳しい状況ではあるが、これからも生徒と支援を結びつけることで少しでも不安を取り除くことができればと思う。

 今まで受けた支援はあまりにも多く、到底返しきれるものではないが、いつの日か恩返しをしたい。昨年の夏休みに合宿支援をしていただいた青森・八戸高校の品田郁夫監督にとても良い言葉をいただいた。「われわれに何か返そうということは、一切考えないでほしい。月日がたって、もしゆとりができたならば、身近にいる誰かに親切にしてくれればそれでいい」というようなお話だった。その言葉を聞いてからは少し気持ちが楽になった。

 「恩送り」とは、受けた恩を誰か他の人に送ること。受けた恩によって多くの人とつながっていると感じることができたし、返しきれない恩を他の人に送ることによって時や時代を超えてつながっていくことができると思う。われわれにも恩送りができる日が、近い将来必ず来ることを信じたい。

 生徒たちの書く野球日誌には、毎日のように「感謝」「甲子園で恩返し」「高田の人を元気にする」という言葉が書いてある。小さな文字で余白まで目いっぱい使って書いてくる日誌は、自分たちが元気に頑張っている姿を支援していただいた方に見ていただきたい、という思いであふれている。生徒たちは本気で甲子園に出て恩返しをしたいと思っている。それは言葉だけではなく、日々練習に取り組む姿にもにじみ出ている。おそらく彼らにとって、寒くて長いオフシーズンを乗り切るためのモチベーションになっているのだろうし、今できる唯一の恩返しの方法なのだろう。

 とても長く感じた1年だったが、つくづく高校野球の指導者になって良かったと思う。生きる力を与えるべき立場なのに、生徒たちから夢と希望と勇気を毎日もらっているからだ。陸前高田の復興は始まったばかりだが、将来の高田を担うであろう生徒たちとともにこれからもできる限り陸前高田の力になりたい。そして、未来の高田高校への橋渡しをしていきたい。 (岩手県立高田高校野球部監督)

 ◆佐々木 明志(ささき・あきし)1963年(昭38)9月18日、岩手県水沢市(現奥州市水沢区)生まれの48歳。水沢から早大に進み、俊足の外野手としてプレー。卒業後は財団法人・岩手県スポーツ振興事業団で1年間勤務。翌87年に教員採用試験に合格し、最初の赴任先は浄法寺高校。水沢、盛岡四を経て、06年4月に高田高校へ赴任した。高田高校での夏の最高成績は09年の岩手大会8強。高校野球の監督の傍ら、02年まではクラブ野球チーム「水沢駒形野球倶楽部」で選手として活躍。担当科目は保健体育。1メートル80、71キロ。右投げ左打ち。家族は夫人と1男1女。

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