復興へのプレーボール~陸前高田市・高田高校野球部の1年~

悲しみと決意…原稿用紙に記した「夢は捨てられない」

[ 2012年1月19日 06:00 ]

瓦礫が撤去され復興を待つ陸前高田市内を背にウオーキングする岩渕

 その作文には、赤裸々な思いが記されていた。(財)全国高等学校体育連盟がこのほど募集した「甦(よみがえ)れ日本!高校生アスリート作文コンテスト」に、高田高校野球部の岩渕恒、及川航両投手(ともに2年)らが応募した。優秀な作文を応募した被災地の高校生運動部員に奨学金を支給する同コンテスト。忘れたい記憶をあえて掘り起こし、3・11の事実を原稿用紙に明かした背景にあるものは…。彼らの思い、現状に迫った。

 体験した者にしか書けない文章だった。静謐(ひつ)な迫力に、そして悲しみと決意に満ちた文章だった。岩渕はまず昨年3月11日午後2時46分のことを淡々と書く。彼らはかつての高田高校校舎裏の高台にあった第2グラウンドで練習していた。陸前高田市街地が一望できる場所にあった。

 私は親の安否を心配して、電話をかけたが、無情にもつながらなかった。諦めて、町や海をながめていた。まだ道路には、車が行き交っている。その時だった。高田松原の松が次々と津波で倒れていった(中略)。容赦なく波が押し寄せて1年間毎日のように見ていた大好きな大好きな高田の町が一瞬にして消えていく。

 岩渕らはその夜を第2グラウンドで過ごした。気温は零度を下回った。避難してきた近隣住民らにグラウンドコートや制服を貸し、たき火を起こして暖を取るたきぎを林から取ってきた。食料には一切、口をつけなかった。岩渕は続けた。

 高台で野球をしていたから助かったのだといつも思う。私は野球に助けられた。

 そして最愛の祖父・伊和夫(いわお)さん(享年83)を津波で亡くしたことをつづった。

 祖父が働いていた場所の周りに祖父の車があった。私はその車のガラスを割りカギを開けて、中に何か入っていないか探した。でもそこには何もなかった。次にトランクを開けた時私はつい涙してしまった物が入っていた。それは私の野球の写真がたくさんあったのだ(中略)。そしてその二日後、祖父の遺体を遺体安置所で見つけた。私は3時間以上泣き続けた。ひたすら泣き続けた。祖父が生きがいと言ってくれた私が野球をしている姿を、一生見せてあげる事もできない。

 父・賢二さん(54)は3・11当日、神奈川県に出張中だった。勤務する(株)大船渡青果は津波で全てを流された。現在は仮設の市場で営業を再開したものの、大幅な賃金カットを余儀なくされている。岩渕は大学進学を目指しているが「私立は授業料が高いから国公立」の注釈が付く。アスリート作文に応募したのは「もし当選したら奨学金がもらえる」からだ。そして「(震災後は)いつになったら忘れられるんだろうと思っていたけど、今は少し区切りがついたような気がする」からだ。

 1メートル81センチ、75キロの右腕。エース候補だが現在は腰痛のリハビリに励んでいる。最速140キロ近い直球と縦横のスライダーとカーブを持っている。苦しい家計にもかかわらず精いっぱい息子をサポートする家族と、野球部の仲間も持っている。

 岩渕は最後にこう書いた。

 私には甲子園出場し、陸前高田、大船渡を活気づけたいという夢がある。この夢は私一人の夢ではない。家族の夢であり、祖父の夢でもある。だから絶対に夢は捨てられない。

 この作文のタイトルは最後の一文から「夢は捨てない」とした。400字詰め原稿用紙6枚の告白を岩渕は3日かけて書いた。

 ▽「甦れ日本!高校生アスリート作文コンテスト」 (財)全国高等学校体育連盟(高体連)が東日本大震災の被害を受けた地域の運動部員を対象に、自らの体験などを記した作文を募集するコンテスト。優秀な作品を応募した生徒には、2~3年間にわたって月額5万円から7万円が支給される。目的は奨学金を支給することによって被災した生徒を激励することや、体験を他地域の生徒が共有すること。表彰式・発表会は22日に行われる。

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