復興へのプレーボール~陸前高田市・高田高校野球部の1年~

佐々木快 記録員として陰で支える「電柱」から「主力の柱」へ

[ 2011年9月13日 06:00 ]

黄金に輝く刈り入れ前の田んぼを横目に気仙川を渡り帰路につく佐々木

 僕たちも高田高校野球部の一員だ――。12日に行われた大船渡との秋季岩手県大会沿岸南地区予選第2、第3代表決定戦で、記録員を務めた佐々木快(かい)内野手(2年)は、声をからしてナインを鼓舞。ベンチの中で精いっぱい戦った。現在は、ベンチ入りを夢見て日々練習を重ねる。チームは4―3で接戦を制し、第2代表として23日開幕の秋季岩手県大会に出場。主力選手は全国からの声援だけでなく、陰で支える控え部員の思いも背負い、来春のセンバツ出場を目指す。

 坂道を40分。野球のことを考えながら、自転車をこぐ。甲子園での東北勢の活躍、秋季大会の反省、自分自身の課題。練習からの帰り道、思うのはいつも野球のこと。そうすれば、つらい上り坂も楽しくなる。

 佐々木の自宅がある住田町有住地区は、地理的には陸前高田市よりも遠野市に近い。周辺にはコンビニもない、のどかな場所だ。元来が控えめな性格。「にぎやかな場所は苦手だから(高田への進学は)不安でした」。部員では最も通学に時間がかかるが、練習場所には誰よりも早く到着することを心がけてきた。

 身長1メートル87、体重70キロのヒョロッとした体格から「電柱」と呼ばれる。名付け親の岩渕恒(2年)は「最初は少しおとなしかった。でも本当に良いヤツ。俺、電柱大好きです!」と佐々木の人柄にホレ込む一人だ。岩渕ら元気な同級生に触れるうち、佐々木の内気な性格も変化した。

 「うちは本当に仲が良くて仲間外れとか絶対にない。だからみんなのことが心配でしようがなかった」

 震災当日。佐々木はケガのため練習に参加しておらず、自宅で祖母・愛子さん(81)と震度5強の揺れに遭遇した。その後、野球部全員が初めて集合したのは2週間後の3月25日。燃料不足のため車での往復は困難だった。それでも再会を望み、自転車で2時間かけて陸前高田市に向かった。「みんな無事だと分かってたけど、顔を見るまで不安だった」。帰りは山道を上るため3時間かかった。正直、とても疲れた。でも、みんなに会えた。みんなに会いたくて必死でこいだ。

 現在の高田高野球部は47人の選手を抱え、ベンチ入りメンバーをA、その他の選手をB、と2班に分ける。チーム分けは選手の技量だけでなく、生活態度、学校の成績も加味される。現在はBのリーダーを務める佐々木。主にBを指導する大久保晋作副部長(27)も「自分が不在の時は、快が練習メニューを考えることもある。安心して任せられる」と信頼を寄せる。それでも、佐々木は「Bでリーダーより、どんなに苦しくてもAに行きたい」と言い切る。

 記録員として精いっぱい声を出すと決めたのは、ベンチに必要とされたと思ったから。本当は選手として試合に出たい気持ちを抑え、この日も懸命に声を張った。「勝って良かった。みんな格好良かった。でも、やっぱり試合に出たい」。試合をする選手が少しだけうらやましかった。

 稲穂は日ごとに黄金色を増し、木々は少しずつ赤や黄色に姿を彩る。「見慣れてしまったので、きれいとか思わなくなっちゃって」。生まれた時から当たり前にある景色。でも、なくなったら寂しいことを佐々木は知った。突然色を奪われた沿岸の分も例年以上に鮮やかに。悲しみの春を乗り越え、修練の夏を耐えた。今年も岩手の山に美しい秋が来る。

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