復興へのプレーボール~陸前高田市・高田高校野球部の1年~

癒やして癒やされた チラシ配布担当・浦田航希「きついのは自分だけじゃない」

[ 2011年12月14日 06:00 ]

ボランティア活動の一環で仮設住宅の住民たちに話しかける浦田

 高田高校野球部が、東日本大震災の支援を目的とするボランティア活動を行った。清掃活動などを定期的に行ってきた同校野球部だが、被災者を直接的に支援する活動は初めてのことだった。貴重な経験を積んだ同校野球部だが、野球部員のほとんど全員が被災者でもある。胸に秘めた使命感、その一方にある微妙な心の揺らぎ…。未曽有の大震災があった年の暮れ。心の傷が癒えるほどの時間は、まだたっていない。

 2年生の外野手、浦田航希(こうき)が選んだのは、陸前高田市災害ボランティアセンターからのお知らせを記したチラシを、市内15カ所の仮設住宅に配布することだった。チラシ配布のほかにあった仕事は、津波が逆流した気仙川の河原の草刈りと、根こそぎ流されたリンゴ畑に新たに苗を植える作業だった。作業内容は部員それぞれの希望によって決められた。

 「ちょっと腰が痛いのもあって。それ以外のことと…半々です」

 浦田は、チラシ配布を選んだ理由を説明した。チーム一のムードメーカー。おどけてみせて、周囲の笑いを取ることが大好きだ。つい数日前には青々と頭をそり上げてきた。その頭をチームメートはペチペチと叩く。チームのために、あえて道化師役を務める浦田だが被災した現場に近づくことは選ばなかった。選べなかったのだろう。部員約50人のうち、草刈りには約30人、リンゴ畑に約10人が向かった。腰痛を持つ浦田にとってハードな肉体労働は難しい。だが、それだけではない。3・11の記憶がある。

 浦田は現在も大船渡市内の仮設住宅に、家族4人と住む。3月11日はかつての高田高校室内練習場で一夜を過ごし、翌12日には徒歩で自宅のある大船渡市に歩いて向かった。家族の安否は分からず「絶対に(家族は)死んだと思った」と振り返る。たまたま立ち寄った避難所で家族と会うことができた。

 仮設住宅に移るまでは大船渡市内の親戚の家で暮らした。野球部の練習が再開されるまでの1カ月余りは小学生のいとこ2人と野球のまねごとをして過ごしたという。瓦礫(がれき)に囲まれたわずかな空き地で、投げて、捕って、打った。その当時から約9カ月。忘れ去ることができるほど長い時間ではない。

 野球部ではボランティア活動をする以前に、部員に作業内容の希望を数度にわたって聞いた。被災者でもある部員の精神面を考慮してだ。瓦礫撤去などの作業が、フラッシュバックを起こさせることは避けなければならなかった。

 浦田らチラシ配布組は仮設住宅を、一戸ずつ回り住民と話す。話すことが住民たちの心のケアになる。草刈り組は慣れない手つきでカマを操る。河原の土手に埋まったおびただしい瓦礫も掘り起こした。リンゴ畑に向かった一団はツルハシとスコップで穴を掘り、1本、1本苗を植え付けた。3年後、成長したその苗がリンゴの実をつける。

 1日を終えた浦田は言った。

 「仮設住宅に住んでいる人から“頑張って”と言われて、逆に元気づけられてしまいました。自分も仮設に住んでいるので。きついのは自分だけでないっていうことが分かりました」

 竹駒小学校グラウンドにできた仮設住宅。チラシ配布組は、集まってお茶を飲んでいた住民らに大歓迎された。元気な若者たちの来訪はうれしい出来事だった。お茶やお菓子を振る舞われ、いろいろな話をした。癒やすことは、癒やされることでもあった。

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