復興へのプレーボール~陸前高田市・高田高校野球部の1年~

後輩たちに伝えたい思い「諦めなければ、願いはかなう」

[ 2011年8月18日 06:00 ]

震災を乗り越え宗志くん(右)を出産した美穂香夫人と仮設住宅で笑顔を見せる伊藤コーチ

 高田高校にとって大きな財産として語り継がれる、88年の甲子園出場。その時、2年生部員としてスタンドで声援を送った伊藤新(あらた)コーチ(40)は、高田高校の学校職員として生徒たちの生活を見守る。高校卒業後は大船渡市内の一般企業に就職して、5年間会社員として働いたが、野球への強い思いを諦められず17年前に転職した。同コーチのモットーは「諦めないことの大切さ」。現在は佐々木明志(あきし)監督(47)の右腕として、また選手の良き理解者として野球部を支えている。

 88年に甲子園を経験した伊藤コーチ。未曽有の震災に襲われた今も、高田高校のユニホームを着続けている。

 3月11日、午後2時46分。学校で強く長い揺れに遭遇した。「普段だったら校舎内を見回るんですけど、あの日は絶対に津波が来ると話して。何をしていたか、地震の直後のことはあまり記憶にないんです」。続々と学校に避難する市民。学校裏の高台に先導して急な坂道を上っていた時、背後から「ボンッ」という激しい音を聞いた。数メートル先では白い車が濁流とともにはねた。急いで高台に走って逃げ、下を見る。大好きだった高田松原の海岸は見る影もなく、一面の海と化していた。「いまでも夢に見ます。いきなり波に襲われて必死で逃げる。すぐに周り360度が海になる。そこで目が覚めるんです」

 伊藤コーチは陸前高田市に隣接する大船渡市の出身だ。野球との出合いは幼少期、父・亘さん(69)に連れられた早朝野球だった。大きな壁にぶつかったのは中学時代。入部した野球部は、同学年の部員が30人の大所帯だった。小柄な伊藤コーチは「こいつらにかなうわけがない」と、野球をやめる決意をする。15歳少年の苦渋の選択。「願書の変更期限直前に、学校から電話があったんです。“お父さんから進学先を変更してくれないかと言われた”って」。父は、壁を相手にキャッチボールをする息子の姿に胸を痛めた。「野球を諦められないんだろ。高田に良い指導者がいると聞いたから、行きなさい」という父に従い進学。そこで09年5月に膵臓(すいぞう)がんで他界した三浦宗(たかし)元監督と出会った。

 「言葉の一つ一つに重みがあった。人生の恩人であることは確かです」。マネジャーへの転向を打診されたこともあったが、選手を続けた。黙々と繰り返した練習が実を結び、3年時には1桁台の背番号を手に入れた。「最後はケガをして試合には出られなかったんですけど。努力すれば報われることを、あの時に学んだ気がします」。高校時代の話をする伊藤コーチはとても誇らしそうな顔になる。

 そして、震災から55日後の5月5日、長男・宗志(そうし)君が誕生。三浦宗元監督の「宗」と佐々木明志監督の「志」を一文字ずつもらい受けた。「予定日より10日早くて。破水したって聞いたのが遠征の時だった。親泣かせな息子ですよ」と笑うが、妻・美穂香さん(33)も身重な体で津波を経験。暮らしていたアパートは跡形もなくなった。現在は横田町の仮設住宅で暮らす親子3人。「野球はお金かかっちゃうし。でもきっとやらせるんでしょうね」。自身が父に連れられて野球を覚えたように。その日を楽しみに、これからも大好きな野球に支えられて生きていく。

 震災から5カ月が経過し、選手は日常を取り戻しつつある。「うちは日本一支援していただいているチームですから。今度は野球で日本一にならなくちゃいけないと思ってます」。諦めなければ、願いはかなう。伊藤コーチは、力強くそう話した。

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