復興へのプレーボール~陸前高田市・高田高校野球部の1年~

「万哲」小田記者「負けないことを教えてくれた」

[ 2012年2月24日 06:00 ]

小田記者の宝物“顔写真ラベル”が貼られた「酔仙」の瓶

 本当にありがたいことだと思う。あれほどの災禍を経て、僕の初めての原稿が高田高校野球部では大切に保管されているという。入社2年目の93年。阿久悠氏の「甲子園の詩」の故郷を訪ね、同期の仲間が全国へ散った。候補校は決まっていたが希望は通った。なぜ高田高校?幼少時の郷愁。わが父は同じ岩手県久慈市出身。帰省といえば、上野駅から特急「はつかり」か寝台列車「ゆうづる」で八戸駅で乗り換え、太平洋岸沿いを南東に下った。実家の陸中夏井駅の目の前が天然の海水浴場。陸前高田の海も同じだろうな…。

 実際、92年春に完成したグラウンドからの景色は絶景だった。センター後方が三陸の海。慣れないカメラのシャッターを何度も押した。みんな優しかった。当時の村上尚章(たかあき)監督は、他校へ転任されていた88年甲子園出場時の監督三浦宗さんに引き合わせてくれた。楽しい酒の宴だった。村上監督が勤めていた酔仙酒造の「酔仙」があまりにおいしく、原稿も脱線気味!?に書きすぎたかも。

 「浜の人間というと迫力があって荒っぽいイメージがあるでしょう。実際は素直でおとなしくて、意外と地道なんです」

 当時の三浦さんの言葉を読み返すと、やりきれない気持ちになる。なぜこんな実直な人たちを震災が襲ったのか。グラウンドには仮設住宅が建設され、多くの人を救ったという。あれだけの試練を経て「甲子園の一イニングの貸し」を追う記事を読み、逆に勇気をもらっている自分がいる。

 僕の実家に大切な宝物がある。初の原稿出稿を祝ってくれた「酔仙」の300ミリリットル瓶。紙面の顔写真をデザインした特注品が掲載直後、突然送られてきた時は驚いた。中身は丁重にいただいたが、瓶はとても捨てられない。僕の原点だから。酒蔵の被災映像には凍りつき、東京の店頭で「酔仙」を見つけた時は涙が出た。

 99、00年に仙台支局でも多くの方に世話になった僕にとって、東北は第二の故郷。今担当している中央競馬では昨年1年間中止になった福島競馬が4月7日に再開する。今、自分にできることは?書くことしかない。いま一度負けないことを教えてくれた高田高校のみんなに心から感謝しています。

 ◆遙かなる甲子園 90年に始まったスポニチの高校野球企画。夏の地方大会の季節に掲載された。当初は所属部署を問わず、入社1年目の全社員が各地の高校に飛び、ルポを執筆。取材する学校は各自の希望に沿って決められた。当時、校閲部に所属していた小田哲也記者が執筆した93年は入社2年目の社員が、故阿久悠氏の「甲子園の詩」に登場する学校を題材とした。99年には写真部・長久保豊編集委員が「第2部」を執筆している。

 ◆小田 哲也(おだ・てつや)東京都中野区生まれの44歳。埼玉大教養学部卒。92年入社。校閲部、仙台支局などを経て、現在は中央競馬担当。愛称は「万哲」で高配当ゲット多数。趣味は酒と将棋。19日のフェブラリーSで3連単14万1910円的中。

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