復興へのプレーボール~陸前高田市・高田高校野球部の1年~

父は誰かを助けに行ったはず だから、僕は仲間を支える

[ 2011年10月15日 06:00 ]

俺のリードで百人力?投手陣を乗せた「甲子園行き」のバスをロープで引くマネをする吉田

 さまざまな出来事に負けまいと、懸命に学校生活を送る高校生がいる。高田高校野球部で副主将としてチームをまとめる吉田心之介捕手(2年)は、控え捕手としても貢献。佐々木明志(あきし)監督(48)だけでなく投手陣も絶大な信頼を寄せる。そんな吉田だが、東日本大震災から7カ月が経過した今も、父・利行さん(44)の行方は分からないまま。絶望と希望が入り交じる小さな心は、あの大震災と真正面から向き合っている。

 「心」という文字が入る自分の名前を、吉田はとても気に入っている。「同じ名前の人はたくさんいるけれど、この漢字を使う人はいないから。心が名前の中にあるのはいいなって、最近思うようになりました」。人生で1番初めに与えられる、唯一無二の宝物。「心之介」と名付けられた瞬間、吉田が担う役割は決まったのかもしれない。

 新チーム発足から3カ月。佐藤隼人外野手(2年)とともに副主将を務める吉田は、控え捕手として主にブルペンで投手の球を受ける。高校では打撃面を生かそうと外野手を希望したが、チーム事情で捕手での起用を打診され了承した。練習でも試合中も、グラウンドの片隅で投手と向き合い、それぞれの投手の調子や球の軌道、球威などを佐々木監督に報告する。

 「迷った時に心之介に“どう思う?”って聞くこともありますよ。的確な受け答えがくるから、彼と話すのは本当に面白い」と信頼も厚い。陰で支える力持ち。その役割を吉田は決して嫌いではない。でも「投手の相手をしていると、どうしても自分の練習がおろそかになっちゃって。実は、最近はそれが悩みなんです」と打ち明ける。自分より他人のことを優先してしまう。それはきっと、父・利行さんから譲り受けた優しい心。

 父は陸前高田市の民主商工会で事務局長として働きながら、地元の消防団の一員として活動。その傍らで吉田の母校である米崎中の野球コーチを任されるなど、市民と積極的に関わってきた。震災当日は、確定申告関連の業務で市役所に滞在していた。同所は建物の3階まで津波が押し寄せ、100人の市民が屋上で孤立した場所だ。

 打撃練習中だった吉田は、そんな状況を把握できないまま第2グラウンドで不安な一夜を過ごした。翌日、孫の避難場所をラジオで知った祖父・税(ちから)さん(77)が危険な状態を顧みず、山道を手探りで歩いて迎えにきてくれた。保育士として働く母・和枝さん(41)は混乱を極める市民に尽くし、震災後5日間は家に戻れなかった。その代わり、祖母・エイ子さん(73)がずっと一緒にいてくれた。

 父の安否は消防団仲間から聞いた。「お父さんの姿がまだ確認できないんだ」。父は絶対に他の人を助けに行ったのだ。「だって、そういう人だから」。16歳の少年の心は、父の勇敢な行動を悟った。7カ月が過ぎた今も、その姿を見ることはできずにいる。

 「テストは毎回一夜漬けです」と吉田は照れるが、成績は常に上位。小中学校では野球部のキャプテンも務め、優等生と評価される。「中学校で生徒会長を頼まれたけど、なんとか断れました」。高校でも生徒会役員を頼まれたが、野球部の副主将就任で免れた。困った人を見過ごせない性分。でも本当は、短気で優柔不断で口下手なのが悩み。朝は苦手で、登校時は遅刻を恐れて自転車を全力でこぐ。そんな普通の高校生。吉田心之介、今月31日には17歳を迎え、また一つ大人への階段を上る。父の思い、母の愛、祖父母の優しさ、仲間の信頼。そして、ひっそりとした悲しみも。その心にはたくさんのものが詰まっている。

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