復興へのプレーボール~陸前高田市・高田高校野球部の1年~

あの時は想像できなかった特別な夏…高田高 元気に入場行進

[ 2011年7月15日 06:00 ]

真新しいユニホームで堂々の入場行進を行った高田ナイン

 東日本大震災から4カ月余り。津波で沿岸部が壊滅的な被害を受けた岩手県で14日、第93回全国高校野球選手権岩手大会の開会式が行われ、球児の夏が幕を開けた。県内最多の1531人の死者を出した陸前高田市の高田高校も元気に行進。ナインそれぞれが、さまざまな思いを抱えながらグラウンドを一周した。チームは16日の2回戦で盛岡工と対戦する。

 あの時は想像することさえできなかった特別な夏がついに始まった。快晴に恵まれた岩手県営球場での開会式。きれいに整備された土の上を、高田高校ナインは胸を張って歩いた。今大会に寄せる各校のメッセージが順番にアナウンスされる。「支援してくださった方々に感謝し、感動を与えるプレーで恩返ししたいです」。このグラウンドに立つために幾多の苦難を乗り越えてきた。さまざまな思いを胸に秘め、それでも凛(りん)として行進する姿は、強さに包まれていた。

 震災により一時はバラバラになったチームをまとめてきた大和田将人主将(3年)は、遠く離れた同期の菅野明俊の姿を思い浮かべていた。「いつも行進の掛け声は明俊がやっていたので、あらためて“いないんだな”と思いました」。親友の菅野は両親が被災したため4月に小山(栃木)への転校を余儀なくされた。震災さえなければ、ともに行進していた親友の無念を思い、歩いた。

 震災後は小、中学校の避難所で物資を運んだり、炊き出しの手伝いなどボランティア活動を続けた木村丈治副主将(3年)は笑顔だった。「今までは練習が一番つらいと思ってたけど、野球ができない方がつらいと分かった」。もう震災直後のように1人で素振りや壁当てをしなくてもいい。試合ができる。その幸せを実感していた。

 控え捕手の吉田心之介(2年)は震災で父が行方不明だ。陸前高田市の米崎中学のコーチでもあった父は、いつもアドバイスをくれた。「力むな」「肘が空いてるぞ」「考え方なんてみんな違う。いろいろな考え方があるんだから」。そんな父が楽しみにしていた甲子園。「親?そっちも大事ですけど今はやっと(大会が)始まるという感じ。自分は2年生ですけど、3年生と同じ気持ちで最後の夏のつもりでやります」と前を向いた。

 控え投手の菅野海(2年)は、震災当日に腰の治療のため母親とともに宮城県気仙沼市にいた。「津波を目の前で見ました。びっくりしました」。道路は冠水し、自宅までは戻れなかったため車中で1泊。ラジオから流れる故郷の惨状を恐る恐る聞いた。あれから4カ月。「やっと夏の大会が来たなという感じです」。待望の夏の到来をこの日の行進で実感した。

 右袖に「陸前高田」と入れた新ユニホームで臨む。大和田主将は「どことやっても負けるつもりはない」と言う。作詞家の阿久悠さん(故人)は88年に高田高校が甲子園に出場し、8回降雨コールドで敗れた際、本紙連載「甲子園の詩(うた)」の中でこう書いた。「高田高校ナインは甲子園に1イニングの貸しがある」。震災は言い訳にしない。甲子園に貸した1イニングは今夏に返してもらう。

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