復興へのプレーボール~陸前高田市・高田高校野球部の1年~

3月11日の記憶 瓦礫の中から見つかった“甲子園”

[ 2012年1月19日 06:00 ]

「3・11」の体験を話す高田高校OBの菅野誠喜さん

 故阿久悠さんは1988年、高田高校野球部が夏の甲子園に出場し、滝川二に降雨コールドで敗れた試合を「甲子園に1イニングの貸しがある」と書いた。当時の野球部員に聞いた「3月11日の記憶」。最終回は岩手県立千厩(せんまや)高校教諭、菅野誠喜さん(40)

 それは経験したことのない揺れだった。3月11日午後2時46分。菅野さんは一関市千厩町の学校近くで単身、車を走らせていた。急停車せざる得ないほど地面はのたうった。周囲の建物からはガラスが砕け散り、電柱は倒れる寸前だった。「尋常ではない出来事が起こったということは分かりました」。何とか千厩高校に戻ったが、陸前高田の自宅が気になった。しかし情報はない。停電、そして電話は不通。気がもめた。「(陸前)高田の人は全員死んだ。まじめにそう思いました」は本音だった。

 翌12日。同僚が菅野さんにこう告げた。「ラジオで“陸前高田壊滅”と言っている」。信じたくなかった。しかし、その夜。毎日新聞号外に載った写真で惨状を知った。一刻も早く自宅に戻りたい。しかし道路は土砂崩れなどで寸断されている。ようやく自宅に戻れたのは3月19日だった。家族と自宅は無事だった。津波は自宅の数メートル近くまで迫っていた。

 菅野さんは高田高校野球部時代、クレバーな投球と制球力に定評のあった右の下手投げ投手だった。2年生だった88年は、夏の岩手大会でベンチ入り。甲子園ではベンチから外れたが、岩手大会優勝時にメンバーに贈られたメダルは宝物だ。

 4月15日。甲子園出場を記念したペナントが瓦礫(がれき)の中から見つかった。「本当にうれしかったんです。自分たちがやり遂げたことの記念だから」。誇らしい記憶は、3・11以前も、それからも変わらない。色あせることもまた、ない。

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