松永怜一氏死去 90歳、ロス五輪金メダルに導き法大でも黄金期築いた名指導者

[ 2022年5月13日 05:30 ]

07年に殿堂入りした松永怜一氏
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 元法大監督の松永怜一(まつなが・れいいち)氏が12日午前2時51分、横浜市の病院で老衰のため亡くなった。90歳だった。後日、家族葬を行う。松永氏は母校・法大監督として黄金時代を築き、84年ロサンゼルス五輪では野球日本代表を率いて金メダルを獲得した。厳しい練習で知られた一方で温かさを併せ持ち、多くの教え子に慕われた。

 その半生のほとんどをアマチュア野球の指導者としてささげた松永氏が、静かに天国に旅立った。晩年は療養生活を続けていたといい、最近では聖地・神宮球場に顔を出すことも少なくなっていた。

 松永氏の厳しい指導は今でも語り草だ。基本は「現場至上主義」。自ら「グラウンドで死ねたら本望」と公言し、特にノックの厳しさは有名だった。愛用の黒いバットは硬い樫の木で作られた長さ36インチ(約90センチ)、600グラムの特注品。指導の第一線を退いてもずっと手元に置いていた。

 生前「ロスの夜空に日の丸が揚がったあの感激は忘れない」と語った松永氏。84年ロサンゼルス五輪の金メダルも猛練習の末に獲得した。直前合宿ではあまりの厳しさに、正田耕三(新日鉄広畑)がノックで受けたボールを松永氏目がけて投げつけた。これが命中して鎖骨を骨折。しかし松永氏はそのまま指揮を執り、ニカラグア戦で正田が右肩を脱臼すると「正田がケガをして頑張っている。他の者が奮い立て!」と語気を強めた。厳しさと温かさ。松永イズムの神髄だった。

 「選手が倍の努力をするならコーチは4倍、監督は8倍努力しろ」「指導の基本は功は選手・部下に、責は己でなければならない」と言い残した。一方で「選手ファースト」の姿勢も併せ持っていた。07年に特別表彰で野球殿堂入りした際には「こんな名誉なことはありません」と喜んだ。全国に巣立っていった教え子は数知れず。誰もが「松永イズム」を受け継いでいる。

 ◇松永 怜一(まつなが・れいいち)1931年(昭6)11月3日生まれ、北九州市出身。八幡では内野手として活躍し、50年春のセンバツではベスト8に進出。法大に進み、卒業後は法政一(現法政大高)、堀越で監督を務め、65年に法大監督に就任。6度のリーグ優勝と黄金時代を築く。住友金属監督として日本選手権2度優勝。84年ロサンゼルス五輪で金メダルを獲得した。日本野球協会の技術委員長、日本オリンピック委員会(JOC)の選手強化本部長なども歴任。07年野球殿堂入り。

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