体操で目指した五輪…京大くん 84年ぶり快挙へ「出てみたい」

[ 2014年12月10日 10:00 ]

プロ入りを前に思いを語った京大・田中

 2020年東京五輪での野球とソフトボールの復活が有力になったことで9日、将来の日本代表候補のプロ選手から歓迎の声が相次いだ。今秋ドラフトでロッテから2位指名を受けた京大・田中英祐投手(22)は、小学校時代は体操で五輪選手を目指していたことを明かし、野球で悲願の五輪出場に意欲をのぞかせた。京大から初めてプロ野球選手となった同投手。今度は京大出身者として、半世紀以上ぶりとなる五輪でのメダル獲得を目指す。

 12年の時を経て、再び五輪出場という目標ができた。田中は「夢舞台」となる6年後の東京五輪へ思いをはせた。

 「野球をやっている人間として復活してくれれば、うれしいですね。その頃に自分が出場できるレベルになっていれば出てみたいというのはある」

 実は小学生時代に別の競技で五輪出場を目指していた。5歳から地元・兵庫県の体操教室「アイキ体操クラブ」で器械体操を始めた。「体操をやっている時は五輪に出たいと思っていた」。潜在的に卓越した運動能力はすぐにクラブ指導者の目に留まり「オリンピックが狙える逸材」と評された。そして、指導者の勧めで小学4年、10歳の時には体操の強豪・姫路商業高が主宰する「姫商ジュニア」に入り。週に1、2度、高校生に交じって練習に参加し、めきめきと力を付けていった。

 だが、父・克則さんの「団体競技の方が社会に出たときに役に立つ」と社交性、協調性を重視する考えもあって、時を同じく入部していた「塩市少年野球団」で野球に専念することに。当時は「体操をやめたくない」と号泣したといい、体操で五輪出場の夢は途絶えた。もちろん、今となれば、その選択は間違っていなかった。

 田中が五輪で一番印象に残っているのが04年のアテネ五輪。松坂(当時・西武)や上原(同巨人)らを擁し、初めてオールプロで臨んだ大会だった。「確か(準決勝で)オーストラリアに負けましたよね。あの試合はよく覚えています」。結果は銅メダルだったが、10年前の日本代表チームの戦いぶりは今でも記憶に残っている。

 プロになったことで、日の丸への憧れが決して夢物語ではなくなった。11月の日米野球はテレビ観戦。「侍ジャパンの試合を見て、いつかはその舞台に立てる選手になりたい」という目標を抱くようになった。20年には田中は28歳になっている。「その頃には今の20代前半の選手が中心になっているでしょうね」。まさにプロ野球選手として最も脂の乗っている時期だ。

 京大出身のノーベル賞受賞者は過去7人で、「ノーベル賞より難しい」と言われたプロ野球選手となった田中。京大出身の五輪メダリストは1936年のベルリン五輪が最後。東京で84年ぶりの快挙に挑む。

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