追悼連載~「コービー激動の41年」その13 運命を変えた全米行脚 

[ 2020年2月29日 09:30 ]

1996年のドラフト同期生、サイバーソン(左)とブライアント(AP)
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 【高柳昌弥のスポーツ・イン・USA】1996年4月にプロ入りを表明してからコービー・ブライアント(当時17歳)は、各チームのフロントやコーチ陣の前で腕前を披露した。少しでも上位で指名してもらうには自分の能力を自分の力で証明する必要があった。

 「どこへ行っても同じことをやったよ。シュートしてドリブルしてジャンプして…」。球団首脳との面談では困難に立ち向かうための心構えを聞かれ、「大学に行くべきでは?」という意地の悪い質問には「自分はこのチャレンジを受け入れています」と何度も答えた。そしてNBAの“入社試験”を受け続ける中で、コービーは人生訓のようなものを口にしている。

 「イタリアから戻ってきたとき、おまえは高校のチームで通用しないと言われました。入部すると今度は州の選手権では優勝できないと言われたんです。でも高校生活の最後にそうでないことを証明しました。否定的なスカウトがいたら、もう一度そこに行って自分の能力を見せてやるつもりでした。失敗なんか恐れない。NBAで失敗して40歳を迎えたら“自分は全力を尽くしたけれどだめだったんだ”とふり返ればいいんです。でも“全力は尽くしたけれどNBAには行かなかった”とは死んでも言いたくない」。

 恐ろしいほどのたくましさである。皆さんは17歳のころ、ここまで人生に対して果敢に攻めていただろうか?おそらくコービー・ブライアントの“強さ”は、外見ではなく内面からみなぎってくる心のエネルギーに支えられているような気がしてならない。

 さてドラフト前にコービーが行った全米行脚は実にセンセーショナルだった。初めてそのプレーを自分の目で見たレイカーズのジェリー・ウエストGMは「信じられないワークアウトだった。未来のスター選手だと実感した」とほれぼれ。当時コービーの代理人を務めていたアーン・テレム氏(大リーグで元ヤンキースの松井秀喜氏も担当)に「どんな手を使っても彼を獲得したい」とすぐに電話でラブコールを送っている。

 問題はレイカーズの指名順だった。1巡目は24番目で、これでは待っている間にどこかのチームが指名するのは間違いなかった。トップ指名権を持っていた76ersでさえコービーには好印象を抱いていた。ドラフト1週間前に練習を見た76ersのブラッド・グリーンバーグGMは「スタッフは全員、彼が数年後にスター選手になっていることを疑わなかった」と語っている。コービーは76ersの地元フィラデルフィアの出身。ただの17歳ではないとわかった瞬間、父ジョーの古巣でもある76ersには興行面を含めた“スポーツ力学”が働き始めた。

 そしてブルズが4回目のファイナル制覇を達成してから10日が経過した1996年6月26日にドラフト会議は行われた。場所はニュージャージ州イーストラザフォードのザ・メドウランズ(当時ネッツの本拠地)。コービーは家族とともにその場に姿を見せた。一度は触手を動かした76ersはこの年の目玉選手だったアレン・アイバーソン(ジョージタウン大)を指名する。ネームバリューと実績を考えると無難な指名だった。続くラプターズはマーカス・キャンビー(マサチューセッツ大=現トレイルブレイザーズ)の名を告げる。5番目にはレイ・アレン(コネティカット大=現セルティクス)がティンバーウルブスに指名された。続々と出てくる有名選手の名前。ただ未来から過去を検証すると、7番目のクリッパーズ、9番目のマーベリクス、11番目のウォリアーズ、12番目のキャバリアーズにはコービーを指名するチャンスと必要性が少なからずあった(と私は思っている)。

 1984年のドラフトで全体2番目指名権を持ちながら、マイケル・ジョーダンの指名を見送ってしまったトレイルブレイザーズ同様、もしGMを含む首脳陣に先見の明があれば、レイカーズで大黒柱となっていく若者の行き先は違っていたはずだ。そして思いもしなかったチームが「コービー・ブライアント」という名前をコールした。(敬称略・続く)

 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には一昨年まで8年連続で出場。フルマラソンの自己ベストは2013年東京マラソンの4時間16分。昨年の北九州マラソンは4時間47分で完走。

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2020年2月29日のニュース