「いだてん」役所広司の凄み“部屋に戻るだけの芝居”が…嘉納治五郎の「人生で一番面白かったこと」とは?

[ 2019年9月29日 08:00 ]

大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~」第37話。嘉納治五郎(役所広司)の“最後の大舞台”が描かれる(C)NHK
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 俳優の役所広司(63)がNHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~」(日曜後8・00)で熱演している“日本スポーツの父”嘉納治五郎(1860~1938)。その生涯にクライマックスが近づいてきた。初回から登場し、金栗四三、田畑政治、古今亭志ん生に次ぐ“第4の主人公”と言えるキャラクターに、役所が圧倒的な存在感で命を吹き込んだ。チーフ演出を務める同局の井上剛監督に、役所の魅力や治五郎の“最後の大舞台”が描かれる第37話「最後の晩餐」(29日放送)の見どころを聞いた。

 歌舞伎俳優の中村勘九郎(37)と俳優の阿部サダヲ(49)がダブル主演を務める大河ドラマ58作目。2013年前期の連続テレビ小説「あまちゃん」で社会現象を巻き起こした脚本家の宮藤官九郎氏(49)が大河脚本に初挑戦し、オリジナル作品を手掛ける。20年の東京五輪を控え、テーマは「“東京”と“オリンピック”」。日本が五輪に初参加した1912年のストックホルム大会から64年の東京五輪まで、日本の激動の半世紀を描く。

 勘九郎は「日本のマラソンの父」と称され、ストックホルム大会に日本人として五輪に初参加した金栗四三(かなくり・しそう)、阿部は水泳の前畑秀子らを見いだした名伯楽で64年の東京大会招致の立役者となった新聞記者・田畑政治(まさじ)を演じる。

 役所がダイナミックに演じる治五郎は、講道館柔道の創始者。教育者としても知られ、1891~93年(明24~26)に旧制第五高等中学校(現熊本大学)の校長を務めたことから、1891年熊本生まれの四三とも縁。その後、四三が進学した東京高等師範学校(現筑波大学)の校長も務めた。

 1909年(明42)、アジア初のIOC(国際オリンピック委員会)委員に。1911年(明44)、大日本体育協会(現日本スポーツ協会)を設立し、会長に就任。1912年(明45)ストックホルム五輪は選手団団長として参加し、四三と三島弥彦(生田斗真)を支えた。

 1920年(大9)アントワープ五輪はIOC会長・クーベルタンに直訴状を提出し、マラソンを正式種目に復活。1924年(大13)に完成した明治神宮外苑競技場も、治五郎が「私はあそこ(森)にスタジアムを作る。いつの日か東京でオリンピックを開くために」と夢を抱いたもの。1940年(昭15)東京五輪招致の際は、大胆にも本命・ローマのイタリア首相ムッソリーニに開催地を譲ってもらう“禁じ手”を唱えた。

 四三にとっては人生の恩師。田畑とは、日本水泳チームが大活躍した1932年(大7)ロサンゼルス五輪に一緒に参加し、1940年東京五輪招致で協力。人並み外れた情熱と、ひょうひょうとしたユーモアを兼ね備えた大人物で、明治から昭和の日本スポーツ界の発展を牽引した。

 フランス大使・ジェラールからストックホルム五輪への参加を要請されて以来、五輪の魅力に取りつかれた治五郎のキャラクター像について、井上監督は「四三君の熊本弁を借りて言えば、治五郎さんは『とつけむにゃあ(とんでもない)人』。多額の借金をして国のためなら返さなくていいとか、今の時代にいたら大変なオヤジだったと思うんですが、『楽しいの?楽しくないの?オリンピック』と(東京高師教授の)永井(道明)さん(杉本哲太)に聞きながら、ストックホルムに行ってみたら楽しかったというのがすべてで。その情熱だけで世界を説得して1940年の東京五輪招致まで成し遂げました。演出としては、治五郎さんの欠点も含めて、人間の大きさ、器の大きさをチャーミングに見せたいと最初に思いました」

 治五郎の五輪へのパッション、モチベーションは役所が随所に体現。例えば、第34話(9月8日)は1936年(昭11)「2・26事件」が発生。厳戒態勢の東京で五輪が開けるのか。自身が勤める朝日新聞社も襲撃された田畑に「嘉納さん、あんた本気で、この日本で今、オリンピックがやれると思っているのか?」と詰め寄られた治五郎は、怒気を含み「やれるとか、やりたいとかじゃないんだよ!やるんだよ!そのためなら、いかなる努力も惜しまん!」と怒鳴りながらイスから立ち上がった。その気迫に田畑も「よし分かった!やりましょう!今後、一切、後ろ向きな発言はしません」と感化された。

 「いだてん」は史実と綿密な取材を基にストーリーを展開。クランクインの前、キャラクター造形についての話は役所と「全然していません。取材したことはお伝えしましたが、あとは史実を積み重ねていった結果、自然と出来上がっていきました」と井上監督。「役所さんのような人になると、台本の読み込み方が半端ないので、演出からの下手な説明は要らないんです。僕らが環境さえ整えて、ポンと入っていただければ、もう自然と動き出します。例えば、序盤の治五郎さんのセリフには台本上、とにかく『!』が付いていたんですが、それも意識されて、あの声の大きさになっていると思うんです。明治の人は、これぐらい腹から声を出さないとダメなんだという感じで。役作りを事前に決めるんじゃなく、現場に入ってみるまで分からない、その分からなさ、どういう化学反応が起きるかを楽しむのが『いだてん』チームなんですよね」

 29日放送の第37話は「最後の晩餐」。1938年(昭13)5月、治五郎がエジプトの首都カイロで行われたIOC総会から帰国する貨客船「氷川丸」の船内。治五郎が手すりにつかまりながら客室を出て、お茶会の場に現れるというシーンがある。その部分を撮影すると、役所は「(お茶会が終わって)部屋に戻るところは撮らなくていいの?いつもの井上さんなら撮るけど」と進言してきたという。治五郎が客室に戻るくだりは台本にはなかった。

 一見すると、客室から“出てきた”“戻った”だけのささいなシーンに思えるが、井上監督は「その部屋に戻る芝居が非常に重要なショットになりました。セリフもない場面ですが、逆に役所さんらしい。僕の撮り方もお分かりになっていて、そうおっしゃてきてくださったんだと思います」。一見、ささいなシーンに映るからこそ際立つ、役所の百戦錬磨の凄さを明かした。

 そして、そのお茶会。乗船客を前に、治五郎は「皆さん、話してみませんか。人生で“一番面白かったこと”を」と切り出す。これは史実。史実は、治五郎は他人の話だけ聞いて、自分の“人生で一番面白かったこと”は胸の奥にしまったままだった。

 しかし「いだてん」はドラマオリジナルとして、脚本の宮藤氏が治五郎が何を語ったのか書いた。

 井上監督は「何年か前に資料を見つけた時から『とにかく、ここの治五郎さんをどう描くかが大事』とスタッフみんなで話していました。『人生の中で一番面白かったことを話し合いましょう』って、77歳にして、どれだけ楽天的な人なんだと。どれだけ疲れを知らないんだと。治五郎さんの人生で一番面白かったことは何なのか。何を、どういうふうに話したのか。是非、ご覧いただきたいと思います」と力を込めた。

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