【内田雅也が書く 野球ができる喜び――コロナ禍の戦後75年(上)】戦争に消えた3連覇への夏

[ 2020年7月28日 07:00 ]

海草中全国制覇メンバーの出陣学徒壮行会。最前列で日の丸に身を包んだ選手たち。右から3人目が真田重蔵。左端が古角俊郎、左から2人目が嶋清一(1943年11月20日、和歌山市新内の前田辰造氏宅)=古角俊郎氏遺族提供
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 終戦から4分の3世紀、75年の節目を迎える今年、新型コロナウイルスの感染拡大で野球界は春夏とも甲子園大会が中止となり、プロ野球は開幕を3カ月延期した。「野球ができる喜び」を強く感じるいま、戦争で野球を奪われた当時を振り返りたい。甲子園大会の中止は1941(昭和16)年夏以来だ。全国大会3連覇に挑むはずだった海草中(和歌山=現向陽高)のエース・真田重蔵は涙にくれた。

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 暑い夏の日だった。1941(昭和16)年7月15日、和歌山県海草郡宮村(今の和歌山市)の海草中(現向陽高)野球部は10日から特別に校長許可を得て、校内の同窓会館で合宿中だった。

 39年、全国中等学校優勝野球大会(今の全国高校野球選手権大会=夏の甲子園大会)で左腕・嶋清一が全5試合完封の偉業で初優勝。前年40年は真田重蔵を投打の柱に連覇を達成していた。

 真田は4年生で健在だった。4月20日の近畿大会では滝川中相手に実に延長25回を3安打完封、1―0で破っていた。エース・別所毅彦(後に南海―巨人)は選抜で骨折し投げなかった。3番・青田昇(後に巨人)は9打数無安打3三振に抑え込んだ。3連覇に挑む夏に向かっていた。

 合宿に優勝旗を持ち込み、一緒に眠った。房をちぎってお守りとした。夏の紀和・和歌山県予選を前に「全員で優勝旗を返しにいこう」が合言葉だった。その日は期末試験が終わり、練習にいっそう熱がこもっていた。

 練習後の同窓会館。監督の長谷川信義が集合をかけた。重い口調で「夏の大会中止」を告げた。

 真田は最前列で聞いていた。「唇が震えていた」と真田の回想が山室寛之『戦争と野球』(中公新書)にある。「それを見たら、私も急に悲しくなって……。中止が本当だとわかると、体が浮き上がるような妙な気分がした。みんなが泣いた」

 全く突然の中止で海草中『輝く球史』によると<選手は本当にしない>と信じられなかった。<中止の事情を聴いてやっと了解した選手たちは食膳の方へ見向きもせず、わっと泣きだした>。

 <事情>とあるが、当時、大会中止の発表はない。主催の朝日新聞も報じていない。12月の日米開戦前で敵性競技の野球排撃が強まっていた。7月の関東軍特殊演習(関特演)で満州に70万人もの兵力を派遣。13日に不要不急の旅行や移動を禁止する文部省次官通達が発令され、大会は自動的に中止となった。防諜(ぼうちょう)上、報道も規制された。

 「不要不急」の移動制限とは、まるで今年の新型コロナウイルス禍での事態を思わせる。

 「僕たちも大会中止はショックでした」と後輩にあたる今の向陽高主将・西真輝(3年)は言う。今年5月20日、コロナ禍で夏の甲子園大会中止が発表となった。あの41年以来79年ぶりだった。

 向陽は2010年、選抜21世紀枠で甲子園出場している。選出理由に戦死した先輩の嶋清一(野球殿堂入り)らの生涯を学ぶなど「部員の平和教育に努めている」とあった。山本暢俊が書いた評伝『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』(彩流社)を新入部員全員に配布していた。

 西は言う。「今も戦争中の先輩について本を読み、話を聞いて学んでいます。当時は本当に命がけで野球をしていたことが分かります。昔と今では情勢が違いますが、平和で野球ができる喜びは僕たちも今年春から味わってきました」

 長く辛い活動休止・自粛の間、個人練習を続けた。グループLINEで励まし合った。代替大会が開催されると分かり、また目標ができた。1回戦を見事な逆転で勝ち、29日、2回戦に臨む。

 再び戦中に話を戻す。42年夏、文部省主催で大会史には残らない全国大会、「幻の甲子園」があり、海草中も出場した。だが真田は従来「20歳未満」だった年齢制限が「19歳以下」に変わり、出場できなかった。秋の明治神宮大会には出場し3連覇を果たしている。12月3日、真田は主将として大阪朝日新聞社を訪れ、優勝旗を返還、レプリカを受け取った。カーキ色学生服にゲートル巻だった。

 43年3月卒業後、プロ野球・朝日軍に入った。勧誘は阪神と2球団。9人きょうだいの末っ子で<朝日を選んだのは、早く亡くなった父親の代わりを務めていた長兄、利一の判断>と元スポニチ編集委員・小川卓の『職業野球の男たち』(協和企画)にある。オーナー・田村駒治郎の肝いりで、甲子園の自邸「一楽荘」の離れに住まわせた。

 長男・智之(68=大阪・堺市)が持っている数少ない戦前の父親の写真が目をひいた。朝日軍入団当時で、撮影場所は今の甲子園警察署付近にあった野球塔だろう。夏の大会前日には茶話会が開かれた。歴代優勝校と選手名が刻まれた銘板がはめ込まれている。真田は思い出の地でプロとしての一歩を記したのだ。

 1年目から13勝と活躍。日大大阪専門学校(現近大)にも学籍を置いていたが、同年秋には学徒出陣で召集された。

 11月20日、和歌山市内で開かれた海草中全国優勝メンバーの出陣壮行会に6人が参加。他5人は学生服、最年少の真田だけが背広で「じゅー、どないしたんや」と冷やかされたと先の『嶋清一』にある。「武運長久」と書かれた日の丸をたすき掛けにして万歳で送られた。

 12月10日、海軍入隊。広島の大竹海兵団に配属され、嶋や同じく海草中先輩の古角(こすみ)俊郎と一緒になった。嶋が出征前に結婚した妻・よしこに宛てた手紙に<みんなで野球をやった>とあった。

 44年6月に移った横須賀の通信隊、9月に和歌山・由良町の紀伊防備隊でも真田は嶋と一緒だった。『嶋清一』で真田は「休憩時間になると道端で昼寝したり野球もやりました。楽しかったです」と語っている。戦時、死を覚悟しながら、やはり野球なのだ。

 10月になり、真田に転属命令が来た。特殊潜航艇の乗務だった。水中を進んで敵艦に肉薄し魚雷を放つ。体当たりの特攻兵器、人間魚雷「回天」とは異なるが、生還の確率は極めて低い。石川県で訓練を受けた。

 智之によると父親はあまり戦争の話をしなかった。ただ「終戦があと数日遅ければ、この世にはいなかった」と聞いた。45年8月15日は神戸で出撃に備えていた。

 戦後、プロ野球に復帰し大活躍した。2リーグ分立の50年には今もセ・リーグ記録の39勝をあげ松竹の優勝に貢献した。

 晩年は阪神に移籍。引退後はスポニチ評論家のかたわら明星高(大阪)監督として63年夏、全国優勝に導いた。当時の本紙に手記を寄せ、友だちから「明星は弱いな」と言われた小学5年生の智之に向け<お父ちゃんはやったぞ>と記した。智之は「子煩悩な父でした」と話し、家族で食事や旅行に行った思い出が残る。

 90年に野球殿堂入りした際、海草中OB会から贈られた掛け軸「一期一会」を「気性に合う」と仏壇わきの壁に掛けていた。先輩の嶋をはじめ、多くの球友を戦争で亡くした。だからこそ、人との出会いを大切にしてきた人生だったのだろう。=敬称略=(編集委員)

 ◆真田 重蔵(さなだ・じゅうぞう) 1923(大正12)年5月、和歌山市生まれ。海草中(和歌山=現向陽高)で39年三塁手、40年投手で夏の甲子園大会連覇。43年朝日軍(後の太陽、松竹)入団。出征後復帰し3年連続20勝、50年39勝(リーグ記録)をあげ沢村賞。52年阪神移籍、56年引退。通算178勝、ノーヒットノーラン2度。57年スポニチ評論家。明星高監督で63年夏、全国優勝。阪急、近鉄などでコーチ。90年野球殿堂入り。94年、71歳で他界。夫人と1男1女。

 ◆嶋 清一(しま・せいいち) 1920(大正9)年12月、和歌山市生まれ。海草中(和歌山=現向陽高)で春夏6度甲子園出場。主戦左腕として39年夏、全5試合完封、準決勝・決勝連続ノーヒットノーランの偉業で優勝。明大進学後の43年、学徒出陣で応召。海軍に入隊。明大戦前最後の主将だった。45年3月29日、海防艦に乗り、インドシナ半島沖を航行中、米軍の魚雷を受け沈没、24歳で戦死した。出征前に結婚、子どもはいない。2008年野球殿堂入り。

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