「高校野球は世界遺産」の原点――和歌山中ボールボーイだった佐山和夫さん

[ 2018年7月23日 09:00 ]

野球少年だった佐山和夫さん(前列中央)。1951年、転校先の和歌山県有田郡・湯浅小学校6年生当時。ユニホームの「HOKUSU」は「HAWKS」のつもりだった(佐山さん提供)
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 【内田雅也の広角追球〜高校野球100回大会余話】和中(わちゅう)と呼ばれた和歌山中(現桐蔭高)のグラウンドには観覧用のスタンドがある。全国中等学校優勝野球大会(今の夏の甲子園大会)で史上初の連覇を達成した1922(大正11)年11月完成。同年12月、皇太子殿下(後の昭和天皇)が来校し、初めて野球を台覧されるため、当時7300円(米価換算で今の6000万円)の巨費を投じて建設された。

 戦時中、このスタンドに防空壕(ごう)が掘られていた。

 <子ども心に戦争が終わったことを実感として知ったのは(中略)いくつかの穴がふさがれるのを見た時だった>

 1945(昭和20)年8月の終戦時小学校3年生、当時の呼称でいえば和歌山師範学校付属国民学校(今の和歌山大教育学部付属小学校)3年生だった佐山和夫さん(81=ノンフィクション作家)が書いている。『和歌山県中等学校・高等学校野球史』の冒頭に掲載されているエッセー『和中最後のボールボーイの思い出』だ。

 佐山さんの父は和中の英語教師だった。敵性語として教科から外れた後は修身などを受け持っていた。一家は敷地内にあった官舎に住んでいた。

 戦後、平和は野球とともにやって来た。佐山少年は学校から帰ると、和中のグラウンド、野球部の部室に走っていくのが日課となった。

 <裏の砂山に打ち上げられるボールを拾いに走るのが最初の任務だった。熱意を買われてか、私は次第に「正ボールボーイ」(そんな言葉はないだろうか)として認知されていった>

 用具は不足していた。部員たちは傷んだボールを家に持ち帰り、縫い繕った。佐山少年も持ち帰り、母親に夜なべして縫ってもらったそうだ。

 戦前、全国制覇を夏2度、春1度達成していた強い和中が復活していた。「お稲荷さんの神主の おみくじ引いて申すよう いつも和中は勝ち 勝ち 勝っち 勝ち」という応援歌のはやし言葉が繰り返された。スタンドは大観衆で埋まり、生徒たちは「W」の人文字を描いた。

 <それにひきかえ、練習は今かえりみても地味だった>と書いている。予科練帰りの和中(わなか)道男投手がノックを打ち、その後は藪中克彦三塁手に打ってもらい自身が受けていたそうだ。

 佐山さんはいま振り返って、選手たちが自ら考え、取り組んでいた姿勢に感じ入る。「監督さんもおられたはずなのに、毎日の練習がすべて生徒たちの自治によって行われていたのが印象的です。早く部室へと急いだのは、練習メニューを上級生たちで決めるのを聞いておくためでした。試合の運び方だって自主運営でした。このところの監督中心の野球を見る度に、あの和中末期の素朴にして自発的な野球を懐かしく思います」。選手中心、選手第一の本来あるべき姿かもしれない。

 45年9月に再開した和中野球部は当初、監督不在だった。同年12月、沖縄・石垣島からOBの深見顕吉教諭が復員し監督兼部長に就いた。その深見監督も「自分の個性、持ち味を出せ」と選手の自主性を重んじる指導方針だった。

 1946(昭和21)年夏、大会が復活した。和中は和歌山県予選、奈良県代表・天理中との紀和予選を勝ち抜き、全国大会出場を決めた。甲子園球場は進駐軍に接収されており、西宮球場での開催だった。

 <いくら正ボールボーイといったところでベンチにも入れないのだが、選手たちは私を大会に連れていってくれた>

 佐山少年は選手たちとともに全国大会の宿舎に泊まった。出場校の宿舎は宝塚・仁川の関西学院寮が用意されていた。だが、ベニヤ板で仕切られ、1校あたり8畳の板の間で風呂もない。ヤブ蚊にも悩まされた。あまりの環境に、和中は大会前に宝塚の旅館に移った。

 当時、和中3年生で左翼手だった松嶋正治さん(87=和歌山市)は佐山少年を覚えていた。「お父さまが和中の先生でしてね。誰が言い出したわけでもなく、一緒でしたよ。旅館でスイカなんか食べてね」

 保護者やOBは和歌山の市場で早朝に買いだした魚や野菜などを運んでくれた。白米も用意され、あまりに食べる選手たちに旅館は追加での炊き出しに追われた。

 佐山少年は選手と同じユニホームを着ていた。母親の特製だった。<食物すらない時代に、よくもあったものだと不思議なのだが、白いスフの布を母はどこからか見つけてきて、和中のユニホームと同じものを私につくってくれた。左の胸のWの文字も同じだった>。

 先に当欄で書いたように、予選段階では、和中の選手たちもユニホームがなかった。「W」のマークを各家庭が手製で縫い付けた。このため色、生地、大きさ、デザインがバラバラだった。全国大会出場で、卒業生の寄贈でそろったのだった。

 初戦の相手は浪華商(現大体大浪商=大阪)だった。大会前、大阪朝日新聞は<優勝候補の顔合わせ 一つは投手力、一つは攻撃力>と報じた。浪華商の左腕、平古場昭二投手と予選4試合で70点をあげた和中の強打が注目された。

 大会3日目の8月17日に対戦。平古場の快速球とカーブの前に1、2回は6者連続三振。計16三振を喫し、安打は有田喜兵衛遊撃手の放った2本のみ。「和中の和中」と注目されたエースも本塁打を含む12長短打を浴びた。2―11の完敗だった。辻川浩選手は『和中桐蔭野球部百年史』に<何が何だか分からないうちに試合が終わった。試合用ボールはよく飛ぶので、練習とは違ってよく目測を誤った>と記している。

 佐山さんはいま、日本高校野球連盟(高野連)顧問でもある。1997年発足の高野連諮問機関「21世紀の高校野球を考える会」の委員として高校野球本来のあり方を見直した。後の選抜大会で21世紀枠創設を推進した。困難克服や他校の模範、地域に好影響……などの理由を基に選出する特別枠である。

 チームワークや礼儀を重んじ、フェアプレーに徹する。高校野球の高い精神性は100年以上かけて浸透してきた。郷土愛やお盆という季節の要素も加わる。文化的な意味合いから、佐山さんは「高校野球を世界遺産に」と提唱している。

 その原点にあるのが、戦後、ボールボーイ時代の風景ではないだろうか。エッセーは<当時の記憶の中で最も鮮明なもの>として<陽が落ちたあと、互いに励ましあいながら、なおも交代でノックを打ち合っていた和中選手たちの姿である>と締めている。 (編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 1963年2月、和歌山市生まれ。85年入社。ロベルト・クレメンテの生涯を描いた『ヒーローの打球はどこへ飛んだか』(TBSブリタニカ)など佐山和夫さんの著書に感銘を受け、駆け出し記者のころ、いきなり手紙を出し、電話をかけて取材させてもらった。和中桐蔭野球部OB会関西支部長。

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