【高校野球 名将の言葉(17)済美・上甲正典監督】「夢叶うまで挑戦」

[ 2022年8月21日 07:45 ]

済美・上甲正典監督
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 宇和島東と済美で、ともに選抜初出場初優勝を飾るなど甲子園通算25勝をあげた上甲正典監督が、座右の銘としていたのが「夢叶うまで挑戦」。妥協を許さない厳しい姿勢を貫きながらも多くの愛情を注ぐ指導で選手からも慕われた。

 高校時代は宇和島東で主に三塁手として活躍したが甲子園出場はなし。龍谷大を卒業後、愛媛に戻って会社員をしていたが「人の下で働いていては日本一になれない」と会社を辞めて地元に戻り薬店を経営。母校のコーチなどを経て77年に監督に就任した。

 選手が時に“集団脱走”や“ボイコット”を企てるほどに厳しい練習を課したが、それも「選手の結束力が強くなる」と計算のうちだった。箕島監督だった尾藤公氏を慕い、試合では「上甲スマイル」と呼ばれる笑顔を見せて選手の緊張を解き、力を引き出した。

 88年の選抜優勝後は「甲子園20勝」と「夏の甲子園大会優勝」を夢の一つとしていたが、闘病生活を送っていた妻・節子さんのこともあり01年夏を最後に退任を決意。だが、同年6月に節子さんは死去した。何も手につかない日々を送る中、再び、監督への道を記してくれたのは、知人を通して聞いた「あの人から野球をとったら何が残るの。野球をやってほしい」という妻の言葉だった。

 02年に男女共学となった済美の初代監督になると宇和島東時代と同様、猛練習を課した。母校の龍谷大の春季キャンプを手伝った際に大学生が音(ね)を上げるほどの練習を常とし、ボートをこぐ動作を実践する練習器具「エルゴメーター」を導入して全身のパワーを養い、夏場にグラウンドコートを着てノックを受け、暑さ対策を行うなどユニークな練習方法もとり入れ鵜久森淳志(元ヤクルト)や高橋勇丞(元阪神)、福井優也(現楽天)ら、のちにプロ入りするタレント軍団を鍛えあげ創部3年目の04年に選抜制覇。春夏連覇を狙った同年夏は決勝で田中将大(現楽天)がいた駒大苫小牧に敗れ、偉業を逃した。

 「愛媛の攻めダルマ」と呼ばれ、グラウンドでは豪快な印象を残したが、目配り、気配り、心配りを大事にする人だった。記者が取材に訪れるたびに「一人で飯を食べるのは寂しいでしょう」と自身は酒を飲まないのに長い時間、付き合うことも多々あった。

 「今まで遭遇したことがない(選手)。どうこしらえていけばいいのか」と表現した安楽智大(現楽天)を擁した13年選抜で準優勝したが、同年夏は花巻東相手に延長戦で敗れ3回戦敗退。結果的には、これが甲子園でのラスト采配となり「夢」だった夏の全国制覇は叶わなかった。

 ◇上甲 正典(じょうこう・まさのり)1947年(昭22)6月24日生まれ。愛媛県出身。宇和島東では内野手も甲子園出場なし。龍谷大卒。コーチを経て77年に宇和島東の監督就任。87年夏に甲子園初出場を果たすと翌88年選抜で初出場初優勝。2001年8月に監督退任し同年10月に済美の監督に就任。04年選抜で再び初出場初優勝し同年夏の甲子園は準優勝。監督通算25勝。14年9月2日に67歳で死去。

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2022年8月21日のニュース