追悼連載~「コービー激動の41年」その19 苦しんだデビュー そして人生の岐路へ

[ 2020年3月6日 08:00 ]

新人時代の故ブライアント氏(AP)
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 【高柳昌弥のスポーツ・イン・USA】1984年10月26日、マイケル・ジョーダンがこの日にブルズの新人としてレギュラー・シーズンでデビューしている。「バスケの神」の姿を想像してはいけない。シュートはブロックされ、パスを何度もミス。エアボールあり、キャッチ・ミスありのドタバタ状態だった。アイソレーション(1対1)と思われた場面では、対戦相手のブレッツ(現ウィザーズ)がダブルチームで応戦してきたので並の新人ではないと思われていたのは確かだが、21歳の黄金ルーキーは想像以上のプレッシャーに耐えられなかった。

 ジョーダンはこのシーズン、40得点以上を7回記録しているがデビュー戦では16得点どまり。ではコービー・ブライアントの初陣はどうだったのか?これが実に地味で、記録どころか記憶にさえ残らないものだった。

 1996年シーズン、レイカーズが敵地フェニックスで開幕戦(対サンズ)を迎えたのは11月1日。ブライアントは最後までベンチに座っていたただ1人の選手だった。出番が巡ってきたのは地元ロサンゼルスで行われた3日のティンバーウルブス戦。18歳3カ月という当時の史上最年少記録を樹立してのNBAデビューだった。レイカーズは91―85で勝利。しかしコービーの出場時間は6分22秒間だけで唯一試みたシュートは相手選手にブロックされ、無得点に終わっている。苦しんだジョーダンの足元にも及ばない?内容だった。

 「もっと華々しいデビューを期待していた人も多いのだろうが私は結果には満足している」というデル・ハリス監督のコメントがなければひどく傷ついたかもしれない。その3日後、レイカーズはノースカロライナ州のシャーロットに遠征。ホーネッツとの対戦に臨んでいた。シャーロット・コロシアムには2万4042人のファンが集結。コービーが前半終了間際にコートに出てくると、たちまち大ブーイングが沸き起こった。

 なにしろコービーをドラフト全体13番目で指名したのはホーネッツ。レイカーズのジェリー・ウエストGMが水面下で動いて指名後のドラフトを成立させたのだが、ホーネッツのファンはほとんど「コービー自身がロサンゼルスに行きたいがためにトレードを画策した」と信じていただけにその印象はすこぶる悪かった。その野次にリズムを狂わされたのか、コービーは6分49秒のプレータイムでターンオーバーを3回も犯し、チームは78―88で敗れてしまった。

 それでもレイカーズは開幕から11戦で8勝。チームの総合力は秀でており、高卒ルーキーに影響されることなく勝ち星はきちんと稼いでいる。新加入のシャキール・オニールはすぐにチームになじみ、エディ・ジョーンズ、ニック・バンエクセルら主力選手との連携もうまくいった。ただ1人、蚊帳の外に置かれていたのがコービー。最初の9試合で計59分のプレータイムをもらったが、これといった“ビッグプレー”はなかった。

 自信と希望を抱いてNBAの世界に飛びこんだ18歳の若者はしばらく悶々とした日々を送っていた。わずかに光が差し込んだのは10試合目となったサンズ戦。3点シュートを6本中4本成功させ、ジョーンズの18得点に次ぐ16得点をマークしてようやく存在感をアピールした。

 だが勢いは長続きしない。12月に入るとベンチを温める時間が増えていく。故障などしていないのに2試合連続で欠場という時期もあった。ハリス監督は当初からルーキーの起用には消極的で、しかもミスの多さを指摘してなかなか出番を与えようとはしなかった。「辛抱しないといけなかった」。高校まではスター選手。監督に使ってもらえないということなど経験したことがなかったコービーは目に見えぬ壁の大きさと高さを痛感していた。

 そんなもやもやが吹き飛んでしまう日がやってくる。1997年2月8日。それはスター街道への入り口となる衝撃的な1日だった。(敬称略・続く)

 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、北九州市出身。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。NFLスーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会には一昨年まで8年連続で出場。フルマラソンの自己ベストは2013年東京マラソンの4時間16分。昨年の北九州マラソンは4時間47分で完走。

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