野球道具を使う側から売る側へ 元猛虎戦士が再び「雑草魂」胸に一流販売員目指す

[ 2022年8月30日 07:00 ]

猛虎の血―タテジマ戦士のその後―(18)桑原謙太朗氏

現在はスポーツ用品店「ヒマラヤ」で販売や接客業務などを行う桑原氏(撮影・長嶋 久樹)
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 昨季限りで現役を引退した元阪神の桑原謙太朗氏(36)は今年4月からスポーツ用品店「ヒマラヤ 岡山豊浜店」で第二の人生をスタートさせた。現役生活14年で3球団を渡り歩くなど、幾多の苦労を経験し、接客業という新たな業種に挑戦。新天地でも一からはい上がり、一流の販売員を志した。 桑原謙太朗氏の動画前編「スポニチチャンネル」はこちら

 桑原氏は新たな業界を第二の人生に選んだ。野球用具を使用する立場から売る側へと転身。現役引退後は当初、野球から離れて、まったく別の景色を見たいと考えていたが、かつての盟友たちから、思わぬ誘いを受けたことで、心境にも変化が生まれたという。

 「最初は横浜でチームメートだった山北茂利さんが働いていた関係で(話があって)、オリックスで一緒だった加藤大輔さん、(阪神でもチームメートだった)高宮和也さんに、引退後にどうですかと話をいただいた。野球から離れたいな…というのはありましたけど、どういう仕事が長くできるのか考えた結果、ヒマラヤさんにお世話になろうと決めました」

 野球がつないだ縁だった。就職活動では複数の会社の面接を受け、最終的に「多少(野球の)知識がある方が落ち着きやすい」とスポーツ用品を扱う同社で働く決意に至った。野球と関わりがあるとはいえ、業態は異なり、新天地で一からのスタートとなった。

 任されたのは野球用品の売り場担当だった。グラブやバット、手袋や練習着など、豊富な商品の在庫管理や商品の説明も行う接客がメインで、現在は、野球道具の加工なども先輩社員に教わりながら、勉強中だという。

 「道具を売る側になって、知らないことがいっぱいあった。道具をお客さんに勧めて、ありがとうございましたと言ってもらえたら、よかったなと思いますね」

 07年に大学・社会人ドラフト3位で横浜に入団。10年オフにトレードで移ったオリックスでは在籍4年間で1軍では22試合しか投げられなかった。14年オフに2度目のトレードで阪神に加入。何度も崖っぷちの状況に立たされ、「クビと言われるまでは頑張ろうと思っていた」とはいつくばってでも生き抜く覚悟だった。

 そして、プロ10年目の17年に金本知憲監督の下でチャンスをつかんだ。打者の手元で鋭く曲がる“真っスラ”を武器に67試合に救援登板して、最優秀中継ぎのタイトルを獲得。ようやく“新天地”で結果を残した。

 「(金本監督には)多少の失敗は目をつぶって、使ってあげるからと、(言われて)それが励みで、がむしゃらにやれた」

 活躍は長くは続かない。勤続疲労が原因で18年には右肘痛を発症した。何とか痛みと闘いながら同年は62試合に登板し、翌19年からは7、12、7試合へ登板が激減。肩肘の限界を感じ、21年限りで引退を決意した。

 「阪神で結果が出るまで10年ぐらいは球団にも面倒を見てもらって、14年できたのは財産。長いことやるのは大切だなと思った」

 順風満帆でなくても14年間のプロ野球人生に胸を張る。第二の人生も「雑草魂」を忘れず、「ヒマラヤ」という新天地で販売員として輝く覚悟だ。(長谷川 凡記)

 《苦労をともにした後輩たちにエール》桑原氏は阪神時代に苦しい時間をともに過ごした後輩たちにエールを送った。「湯浅選手、才木選手、島本選手、浜地選手とは一緒にリハビリをやっていた時期もあった。そういった選手が1軍の舞台で頑張っているので、うれしいですし、頑張ってほしい」。2軍施設でリハビリに努めた当時は年長者として「みんな一生懸命、頑張っていこう」と鼓舞。各選手が故障を乗り越えて1軍で活躍する姿に喜びを感じていた。

 ◇桑原 謙太朗(くわはら・けんたろう)1985年(昭60)10月29日生まれ、三重県出身の36歳。津田学園から奈良産大を経て、07年大学生・社会人ドラフト3巡目で横浜(現DeNA)入団。いずれもトレード移籍で11年からオリックス、15年から阪神に在籍。救援で自己最多の67試合に登板した17年に最優秀中継ぎのタイトルを獲得。通算242試合15勝13敗78ホールド、防御率3.61。1メートル84、86キロ(現役当時)。右投げ右打ち。

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