気がつけば40年(13)田淵さんの肘打ちが痛かった甲子園のバックスクリーン3連発

[ 2020年9月1日 08:00 ]

バース、掛布、岡田のバックスクリーン3連発で阪神が巨人に逆転勝ち。1985年4月18日付スポニチ東京版
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 【永瀬郷太郎のGOOD LUCK!】ランディ・バースが槙原寛己の初球を捉える。沸き上がる大歓声。打球がバックスクリーンに吸い込まれた瞬間、左腕に痛みが走った。隣に座っていた田淵幸一さんの右肘が飛んできたのである。

 1985年4月17日。阪神―巨人3連戦の2戦目だった。前年限りで現役を引退した田淵さんはTBSの野球解説者、スポニチの評論家としてネット裏デビュー。巨人担当に戻った私と並んで記者席にいた。

 打倒巨人に燃えた元ミスタータイガース。1973年には1死球を挟んで巨人戦7打数連続本塁打という離れ業を演じている。

 1978年オフ、深夜のトレード通告で阪神を出されて西武へ。評論家になって戻ってきた甲子園。1―3で迎えた7回2死一、二塁から飛び出した3番バースの逆転3ランに興奮し、体が勝手に反応したのである。

 まだ痛みが収まらないうちにまた来た。続く4番、掛布雅之の打球はバックスクリーンの少し左へ。田淵さんにとっては一緒にプレーしたかわいい後輩。思い入れが強い分、右肘の振り幅が大きかった。

 地鳴りがするグラウンド。5番の岡田彰布も続いた。もう痛いのは勘弁だ。打球がバックスクリーンに飛び込む前に体をよじり、ディスタンスを取った。

 伝説のバックスクリーン3連発。試合の勝敗にも直結した。巨人も9回、ウォーレン・クロマティ、原辰徳の一発で応酬したが、一歩及ばず、阪神6―5の勝利。2、3発目が効いた。この勢いに乗って21年ぶりの優勝に向けてひた走るのである。

 その夜、原稿を送り終えると、田淵さんと甲子園球場近くの中華料理店「龍園」へ急いだ。「ぶっちゃん、久しぶりやなあ」。店主夫妻の歓待を受け、生ビールで乾杯。子袋から大腸の唐揚げ、餃子、手羽先、焼きそばときて、締めは天津焼きめし。絶品台湾料理をたらふくいただいた。

 その頃、つらい思いをしていたはずの槙原に後年、この3連発についてじっくり話を聞いた。

 「実はバースに打たれたのは真っすぐのサインで勝手に投げたシュートだったんです」

 正捕手の山倉和博が故障で戦列を離れ、マスクをかぶっていたのは近鉄から移籍して1年目の佐野元国。3回無死一塁で打席にバースを迎えたとき、真っすぐのサインでシュートを投げたら、うまくいって二ゴロ併殺打になった。西本聖に教えてもらってひそかに練習していた球で、サインは決めてなかった。

 山倉が受けていたら「おまえ、何を投げたんだ」と突っ込まれたはずだが、佐野は何も言わない。6回にもバースに同じ球を投げて二ゴロ。味をしめて7回のピンチで初球に投げたら、ほとんど曲がらず真ん中へ。完ぺきに捉えられたというわけである。

 掛布には「やっぱり真っすぐ勝負だな」と思ってカウント1―1から投げ込んだ真っすぐが真ん中高めに入った。岡田には放心状態で投げた「横のカーブ」を打たれた。定岡正二に習ったスライダーの握りで投げたのだが、切れが悪かったばかりか「フォームが緩んで変化球と分かったのかな」。しっかり踏み込まれた。

 バースと岡田に打たれたのは、まだ自分のものになっていないシュートとスライダー。未完成の変化球が伝説を演出したのである。(特別編集委員)

 ◆永瀬 郷太郎(ながせ・ごうたろう)1955年9月生まれの64歳。岡山市出身。80年スポーツニッポン新聞東京本社入社。82年から野球担当記者を続けている。還暦イヤーから学生時代の仲間とバンドをやっているが、今年はコロナ禍でライブの予定が立っていない。

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2020年9月1日のニュース