参加章が語る102年前の無念…加藤徹哉さん センバツ中止で“幻の夏”経験の「祖父の気持ち分かった」

[ 2020年3月19日 08:30 ]

名古屋市内の病院で院長も務める加藤徹哉さんはセンバツ中止に祖父への思いを語る
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 19日に球児の熱戦が始まるはずだった甲子園に“球春”は訪れなかった。第92回選抜高校野球大会は新型コロナウイルスの感染拡大のため、センバツ史上初の中止。出場校が決まりながら開幕目前で大会中止となったのは1918年夏の第4回全国中等学校優勝大会以来だった。102年前の当時の出場校、愛知一中(現旭丘)の選手だった加藤高茂さんの孫で、名古屋市内の病院で院長を務める加藤徹哉さん(55)に大会中止について聞いた。

 甲子園に響くはずだった球音は、この春はない。センバツ史上初めての大会中止。かつて、同じように開幕目前で中止となった大会がある。1918年夏の第4回全国中等学校優勝大会だ。球児の春が消えた今、102年前の夏の球児の無念を知る加藤さんは、出場予定だった32校の心情を思いやった。

 「皆さん一生懸命練習してきて、秋の大会を勝ち抜いてきた。(大会の開催は)社会的には難しかったとは思いますけど…」

 外野手だった祖父・高茂さんは、1918年夏の幻の出場選手だった。前年優勝の愛知一中の主砲として乗り込んだ大会が米騒動で開幕目前に中止。連覇を目指していたチームはそのまま優勝旗を持ち帰った。遺品の中にあった当時の参加章を通じて102年前のことを知り、加藤さんは昨年5月末に甲子園歴史館に寄贈した。

 参加章は縦4センチ横3センチほどのブロンズで、裏に「1918」と刻まれている。高茂さんは加藤さんが7歳のときに火災で他界しており、遺品を数年前に整理していたときに見つけたそうだ。前年優勝時のものはなく、参加章はこれだけ。「開幕目前で出場できず、ずっと思いが残って手元に置いていたんだと思います」。しかも前年の優勝時は打率1割台と活躍できず、不動の4番で臨んだ大会が中止に。「一生懸命練習してきて悔しかっただろうなと。ちょっとだけ祖父の気持ちが分かった気がします」

 あれから102年を経て大会中止。名古屋市内のTKクリニックの院長でもある加藤さんは「実は102年前もスペイン風邪でパンデミックが起こっている」と関連性を指摘する。当時の日本での流行は秋からで中止は米騒動のためだったが、今回は感染拡大が直接の原因。現状の医学的データを踏まえて、医師の立場から加藤さんは「健康管理をしっかりすれば大会はできたのでは」と言った。そして、最後に「医師の立場からではないですけど」と前置きして続けた。「球児の思い出を守るためにもやらせてあげたかったと思います」。それは、102年前の球児の無念を知るからこその言葉だった。(秋村 誠人)

 ▽米騒動による中止 1918年8月3日に富山県内で米屋に他県への米の売買停止を求める騒動が勃発。騒動は関西圏から名古屋、東京へも広がった。政府が事態収拾のための方策を打ち出したが、全国各地で騒動は収まらずに軍が出動する事態へ。鳴尾球場で8月14日開幕予定だった第4回大会はすでに地方大会を終えて出場14校が出そろい、同13日に組み合わせ抽選会も実施。しかし、情勢を考えて一度大会延期とし、同16日に宿舎に待機していた各校へ大会中止を通達した。優勝旗は前年優勝校の愛知一中が持ち帰り、翌年まで保管した。

 ≪祖父の思い継ぎ球場跡地巡った≫加藤さんは昨年の参加章寄贈の際、甲子園とともに第4回大会が行われるはずだった鳴尾球場の跡地を回り、阪急西宮ガーデンズで食事をした。実は同ガーデンズが西宮球場の跡地と聞いた加藤さんは「(全国大会が行われた)それぞれの球場がどうなっているのか、祖父が見てきてほしかったのではないかと思います」。参加章が展示されている甲子園歴史館は新型コロナウイルス感染拡大の影響で31日まで臨時休館となっている。

 ≪祖父は早大進学 田中勝雄氏らと一緒に米国遠征≫加藤さんの祖父・高茂さんは愛知一中から早大へ進み、外野手として活躍。初代監督の飛田穂洲氏の下でプレーし、1921年の米国遠征にも参加した。当時の早大は野球殿堂入りした捕手の久慈次郎、外野手の田中勝雄氏らそうそうたるメンバー。田中氏はベーブ・ルースのような強打で「ベーブ田中」と呼ばれており、加藤さんは「ベーブ田中さんとの写真も残っている。凄い選手だったんだなと」と祖父への思いを語った。

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