内田雅也が行く 猛虎の地(13)米カリフォルニア州モデスト ホームシックで得たハングリー精神

[ 2019年12月14日 08:30 ]

モデストキャンプで練習する藤村富美男=『タイガース30年史』=
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【(13)モデスト(米カリフォルニア州)】

 藤村富美男(阪神)らセ・リーグ4選手がプロ野球で戦後初めて渡米したのは1951(昭和26)年2月26日だった。メンバーは他に川上哲治(巨人)、小鶴誠(松竹=消滅)、杉下茂(名古屋=現中日)。通訳として当時巨人国際担当のキャピー原田、前松竹監督の小西得郎が同行した。

 羽田を午前9時20分発のパンアメリカン航空機。前日25日夕、羽田を飛び立った同機はエンジン故障で伊豆大島上空から引き返していた。川上は成田山の御守り札を他3人にも配って拝んだ。

 この渡米は戦前から既に5度も来日していた米3Aサンフランシスコ・シールズ監督、フランク“レフティ”オドールの招待だった。特に49年、シールズを率いて来日した際は各地で日本人と交流を深めて大人気となり「外交官が束になってもかなわない」と日米親善に尽くしていた。

 渡航費の他に生活費として1万ドル(当時のレートで約360万円!)が支給され、小遣いまでもらった。藤村の年俸が320万円の時代、破格のもてなしである。オドールは「将来、日本球界で指導者となれる選手は、見聞を広めるべき」と語っていた。

 渡米先はシールズのキャンプ地、カリフォルニア州モデストだった。サンフランシスコから東へ車で約1時間半の小さな町だった。
 現地でどういう生活だったのか。藤村はあまり語っていない。評伝や文献でも見かけない。

 その理由が杉下の証言で読み取れる。75年発行の『戦後プロ野球史発掘』(恒文社)で語っている。「着いて1週間(中略)一番はじめにノイローゼと言いますか、ホームシックと言うかな、そういうのにかかっちゃって意気消沈しちゃったのは藤村さんなんですよ」
 機内では持ち込んだ「捕物帖」を読んでいた。次いで川上も「2週間ほどしたら、これまたホームシック」だそうだ。

 なぜか。藤村らが打撃ケージに入るとシールズ選手に「どけ」と「いじめられる」。オドールは2日目からゴルフや接待に忙しくグラウンドにいなかった。川上は帰国後「よそ者が入り込む余地がなかった」と語っている=波多野勝『日米野球史』(PHP新書)=。

 雑誌『野球少年』(芳文社)51年6月号に「渡米4選手 びっくりおみやげ話」と題した座談会が掲載されている。8時半朝食、練習は午前11時から3時半、夕食は6時半。その間は「映画館で昼寝」だったそうだ。

 藤村が渡米で感じ得たのはマイナー選手のハングリー精神か。当時既に35歳。42歳まで「ミスタータイガース」を全うしたのだった。=敬称略=(編集委員)

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