阪神ドラ6・小川一平 苦悩続きだったプロへの道…無名大学生を襲った震度7

[ 2019年12月14日 09:30 ]

虎ルーキーの素顔に迫る 最高峰の舞台にトライ ドラフト6位・小川一平投手<上>

逗子市立逗子小学校時代の小川一平
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 阪神のドラフト6位・小川一平投手(22=東海大九州)は、神奈川県逗子市で生を受けた。高校時代はほぼ無名だったものの、大学でドラフト指名を受けるまでに成長を遂げたその裏には苦難続きの4年間があった。

 かつての自分自身からは、とても想像できなかった。19年10月17日。最速149キロを誇る本格派に成長した一平のもとに、吉報が舞い込んだ。阪神からのドラフト6位指名。中央球界では無名だった右腕の少年時代は、やはり驚くほど平凡でありふれたものだった。

 「工業高校ということもあって絶対就職しようと思っていた。甲子園出場は憧れというか手が届かない所だと思っていた」

 小学2年生から野球を始めた。地元の軟式野球・逗子オリーブスに2歳上の兄・太郎さんと同時に入団。肩の強さを買われて4年生の時から投手を任されたが、少なからず父・昌史さんの教育方針が影響していた。

 「チーム競技と個人競技の両方をやらせる」という考えがあり、柔道も習っていた。しかも、柔道を始めたのは小学1年生。野球より早く全身運動の競技に親しんでいたことで、父は「投手としての身のこなしができるようになったと思う」と当時を振り返った。

 投手としての適性を見いだされたその一方で、実績は皆無だった。逗子オリーブス、逗子中で全国大会への出場経験はなし。横須賀工3年春には最速141キロをマークしたが、県内には後に中日から1位指名される東海大相模の左腕・小笠原が150キロを計測していた。「(自分が)早いとは特別思わなかった」。エースとして迎えた最後の夏も、神奈川大会2回戦で公立の厚木北に3―5で敗退した。「弱い私立校くらいを倒せたら良いかな」。高校で野球には一区切りをつけ、就職するつもりだった。

 そんな一平自身の思いとは裏腹に、周囲から見ればその潜在能力は捨てがたいものがあった。恩師でもある横須賀工の三木健太郎監督は、練習試合で投球を見ていた横浜隼人の佐野辰徳副部長(当時、現同中野球部監督)に相談。佐野氏が東海大九州のOBであったことから、同大・南部正信監督のもとに情報がもたらされ、練習を視察してもらうことが決まった。「人より、もう1つボールが遅れてくる腕の振り方をしていた」。体はまだまだ華奢(きゃしゃ)だったとはいえ、リーチの長さが南部監督の目に留まった。

 「九州に行けば145キロを出せれば目立つ。(関東の大学より)ゆっくりできるしそこに行って145キロを目指さないか」
 監督からの勧誘で気持ちに変化が生じただけでなく、両親からの後押しもあった。心は決まった。一平は未踏の地、熊本で野球を続けることを選んだ。

 ただ、新天地での生活は順風満帆とはいかなかった。入学直後の16年4月、震度7を観測した熊本地震で被災。阿蘇キャンパスのグラウンドや寮は大きな被害に遭い、一時帰省を余儀なくされた。「なにか自分たちにできることはないか」。目の前で起きた大災害に黙っているわけにはいかなかった。大学の友人と渋谷で募金活動を開始。東日本大震災の際、昌史さんが消防団の一員として救助活動に取り組んでいたことにも、少なからず影響を受けたのだろう。

 2カ月あまりの帰省を終えて熊本へ戻った。野球どころではない場所からの再スタート。待っていたのは更なるいばらの道だった。(阪井 日向)

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