子規の故郷で「野球」を思う。

[ 2018年4月25日 09:30 ]

松山城天守からの眺め。かつて城北練兵場があった辺りは愛媛大学や赤十字病院が建っている
Photo By スポニチ

 【内田雅也の広角追球】正岡子規はどれほど野球が好きだったのか。たとえば、司馬遼太郎は小説『坂の上の雲』(文春文庫)で、結核で松山に帰省療養中にもかかわらず、友人を誘い、病床を抜け出す光景を描いている。血を吐いた翌年、1889(明治22)年夏のことだ。

 母・八重が三和土(たたき)に下りた息子に「ベースボール!」と悲鳴をあげる。

 「母さん、夕(ゆうべ)から気分がええもんじゃけれ、ちょっと連れざって行かせて賜(たも)し」

 伊集院静の小説『ノボさん』(講談社)は冒頭で、銀座の大通りを野球の試合に向かう子規が登場する。「ノボさん」とは子規の幼名・升(のぼる)からくる愛称で、母や友人たちは皆そう呼んでいた。

 子規を見かけた書生が声をかける。

 「ノボさん、どこに行きますか?」

 「おう、あしはこれから新橋倶楽部のべーすぼーるとの他流試合に出かけるんぞな」

 野球に向かう子規の心が沸き立つ様子がうかがえる。<このスポーツを初めて見た瞬間から自分の身体の芯のようなところがカッ、と熱くなり、鳥肌が立った>。

 同書ではまた、捕手としてプレーする最中、打者が青空に向けて打球を放ち、<ええのう。べーすぼーるはまことにええのう……>と感じ入る心持ちが描かれている。

 ベースボール9首のなかにある<うちあぐる ボールは高く雲に入りて 又落ち来る人の手の中に>という感動である。

 そんな子規の故郷、松山に来ている。日々、コラムを書いている阪神タイガースの取材である。朝、昼と市内を歩いてみた。

 前々回、当欄で書いたように、河東碧梧桐や高浜虚子に野球を教えたという松山城北側にある練兵場跡地に向かった。現在の愛媛大学城北キャンパスから松山赤十字病院のあたりだという。練兵場の面影はないが、運動場や中庭の芝生などを見かけると、つい子規が野球に興じた昔を思う。

 子規の随筆集『筆まかせ 抄』(岩波文庫)によると、1890(明治23)年4月7日、友人2人と東京・板橋方面へつくし狩りに出かけている。帰り道、片町付近の植木屋で芝生を養生している広場があった。

 <我ヽボール狂には忽(たちま)ちそれが目につきて、ここにてボールを打ちたらんにはと思へり>として一句詠んでいる。

 <春風やまりを投げたき草の原>

 ベースボールを野球と訳した中馬庚(ちゅうま・かのえ)は英文「ボール・イン・ザ・フィールド」から「野球」としたという。野球にはやはり、野原や青空が似合う。

 子規は1896(明治29)年7月、雑誌『日本』(日本新聞社)で「ベースボール」を解説している。<ベースボールに要するものはおよそ千坪ばかりの平坦なる地面>とし、さらに記している。<芝生ならばなお善し>。

 『ノボさん』では子規の青春、夏目漱石との友情が描かれている。

 英国留学中の漱石は子規の訃報を手紙で知った。ロンドンの下宿で、亡き友をしので追悼句を作っている。なかに1首、こんな句がある。

 <きりぎりすの昔を忍び帰るべし>

 野球に夢中だった子規をキリギリスにたとえているのかもしれない。『ノボさん』にはこうある。<子規よ、白球を追った草原に帰りたまえ、という友への哀切が伝わってくる>。

 思えば、松山市内を散歩中、幾度も草の香りがした。あれは野球の匂いだった。 =敬称略= (編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) かつて実家の裏には米作りを止めて久しい、荒れた田んぼがあり、草が茂っていた。小学校の友人と地名を冠して「神前球場」と名づけ、文字通り草野球に興じていた。試合の合間に草の上に寝転び、雲を眺めていた。1963年2月、和歌山市生まれ。桐蔭高―慶大文学部卒。

続きを表示

この記事のフォト

2018年4月25日のニュース