気がつけば40年(37)幻の日本人大リーガー1号 杉下茂さんに聞いたフォークボール誕生秘話

[ 2023年6月18日 08:30 ]

2003年1月10日付スポニチ東京版
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 【永瀬郷太郎のGOOD LUCK!】フォークボールの元祖として知られる杉下茂さんが12日、亡くなられた。享年97。大正生まれの大投手をしのんで20年前に「スペシャル人間」という企画で掲載した記事の一部を再録したい。

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 杉下がフォークの存在を知ったのは明大2年の1947年1月。岡山・琴浦商の左腕、東谷夏樹を明大に引っ張るのが目的で四国遠征の帰り、指導に寄ったときだ。直球しか投げられない東谷にナックルを教えている姿が、杉下を迎えに来た明大野球部技術顧問の天知俊一の目に留まった。

 天知は帝京商時代の英語教師で野球部監督、のちに中日監督となった恩師である。グラウンドから旅館への帰り道、天知から「人さし指と中指に挟んで投げるナックルがある。フォークボールというナックルだ。おまえなら投げられるんじゃないか」と言われた。

 「投手である以上、硬球もピンポン球のように自由自在に操りたい」と思っていた杉下は好奇心を刺激された。「指で挟むの、どうやるんですか?」と聞くと「フォークをイメージすりゃいいじゃないか」。天知も明大学生時代の米国遠征で大リーガーが投げているのを見ただけ。実際に投げたことはなかった。

 あとは独学。四六時中ボールを握って研究した。だが、練習はままならなかった。終戦直後、ボールは貴重品。練習でワンバウンドでも投げようものなら傷がついて先輩の鉄拳が飛んでくる。ボロボロになったボールを指に挟んでネットに投げて感覚をつかむしかなかった。明大時代、リーグ戦で投げたのは1球だけ。3年秋の立大戦。「うまいこと変化してバットの根っこに当たったんだけど、三塁線に転がって内野安打。これで使うのをやめたんですよ」という。49年に中日に入団してからも、この魔球の存在は隠していた。

 「プロに入って1年目から投げてましたよ。スピードを抜いて、カーブのサインが出たときにまぜてたんですよ。“杉下は変なボールを放る”と言われましたけどね。誰もフォークとは知りませんでした」

 “変なボール”の実体が明らかになったのは51年のことである。

 この年の2月、米カリフォルニア州モデストで行われた3Aサンフランシスコ・シールズのキャンプに参加した。巨人の川上哲治、阪神の藤村富美男、松竹の小鶴誠とともにセ・リーグから米球界視察の名目で派遣されたのだ。

 キャンプ参加とはいっても打者の3人はもっぱら監督、コーチ修業。練習させてもらえない。杉下だけ打撃投手に駆り出された。フリー打撃とはいえ、打たれたらしゃくだ。思い切り腕を振ってフォークを投げた。バットは面白いように空を切った。

 話を聞いたフランク・オドール監督が翌日やってきて「何を放ったんだ?」。2本の指でボールを挟んで見せると「おお、フォークボールか。じゃあ投げてみろ」。実際に投げて見せるとオドールは「ウチの選手にはもう投げるな」と言って、フォークを封印した。このやりとりで川上らがフォークの存在を知ることになったのである。

 杉下はこのキャンプ期間中、シールズが組んでいたメジャーとのオープン戦4試合のうち3試合に先発した。「キャッチャーが捕れないからフォークのサインを出してくれない。結構打たれた」と振り返っているが、入団テストの意味合いがあったらしい。結果は「合格」で、入団を要請された。中日の年俸は240万円。オドールは「その240万円に加えて1万ドル出す」という。当時は1ドル=360円で計600万円。家族の渡航費、滞在費もすべて球団が持つという破格の条件だった。

 「実は出発前、中日の中村三五郎代表から“半年ぐらい帰ってこられないかもしれん”と言われたんです。話があったんでしょうね。でも天知監督からは“絶対帰ってこいよ”と言われていたし、4月に長男が生まれる前で身重の女房を呼ぶわけにはいかんし…。今から思えば惜しいことをしたという思いはあるね。女房は今でも“あのとき呼んでくれればよかったのに”と言ってますよ」

 残っていれば、日本人初の大リーガーになったのは間違いない。

 フォークの存在を知られてしまっては、もう隠す必要がない。帰国後、ピンチで川上を迎え3球続けてフォークを投げたことがある。バットにかすりもせず三振。「打撃の神様」を「キャッチャーが捕れないボールをバッターが打てるわけない」と悔しがらせたのは有名な話だ。

 フォークをきっちり打たれたのは1度だけ。晩年を迎えた58年、巨人のゴールデンルーキー、長嶋茂雄に許した三塁強襲安打だけという。「ほとんど前に飛ばされた記憶がない」というほどの必殺球だったが、決して多投はしなかった。「よう放ったというゲームでも10球は投げていない」という。

 「フォークというのはどこへ行くか分からない球なんですよ。そんな球で打ち取っても、ごまかしちゃったという感じ。真っすぐはおよそ目掛けたコースに行く。アウトローの真っすぐで抑えてこそ打ち取ったと言えるんです。終盤1点を守らなきゃいかんところでピンチを迎える。じゃ、仕方ない。このボールにすがっちゃお、というのがフォークなんです」

 その伝家の宝刀を一番投げたのが54年。優勝を約束した天知監督から「ピンチになって使うんじゃなく、ピンチにならないように使え」と言われ、信念を少しだけ曲げた。フォークを見せ、その残像を利用して他のボールで料理。この年32勝のうち11勝を巨人から挙げて初優勝に貢献した。西鉄との日本シリーズでも5試合に登板、第7戦をシリーズ最少投球数の90球で完封して日本一に輝いた。

 だが、最後まで美学は貫いた。56年3月25日の巨人戦(後楽園)、3―0で迎えた九回1死満塁。杉下は樋笠一夫に真っすぐを3球続けて史上初の代打逆転満塁サヨナラ本塁打を浴びた。

 「彼にはフォークは1球も投げませんでした。真っすぐに強いバッターに真っすぐで勝負。それでいいじゃないですか」

 基本はあくまでもストレート。若い投手にフォークの投げ方を聞かれて、こう答えることがある。

 「フォークを放りたかったら、もう少し真っすぐを磨きなさい。真っすぐあってのフォーク。まずちゃんと真っすぐを放りなさい」
     =敬称略=

 ◆永瀬 郷太郎(ながせ・ごうたろう)1955年生まれの67歳。岡山市出身。80年スポーツニッポン新聞東京本社入社。82年から野球担当記者を続けている。特別編集委員。

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